コメンスキー博物館

この町にも博物館(もとはお城だった)があるので訪問した。そのお城の円形の屋根は随分とスマートだ。尖塔のすぐ下のほうにある丸い金色の玉には日常品(1リットルのお酒、新聞・日用雑貨等)が2002年に保管された。屋根を造り直す工事のときだった。30年戦争のとき日本ではバイキングとして知られる獰猛なスウェーデン軍が進軍して戦いとなっていたころ教会の屋根が壊れてしまい、その後長いあいだ仮に造られた平たい屋根で風雪を絶えてきたものだ。それがスマートな尖がり帽子のような屋根に修復されたのが2002年であったから,ずいぶんと悠長なはなしである。この高くて遠くから見張らせる尖がり帽子の形をした見張搭がランドマークなのである。


博物館の前庭にはプロテスタントの司教の像が立つ、17世紀の司教の像である。彼は誇らしげに両手を高く突き出し、その両手にチェコ語のバイブルをかざしている。この地はチェコが生んだ気骨の反カトリック思想を唱えて殺されたヤン・フスとフス派その後はプロテスタント擁護の町であった。石像になっているその司教の時代に、この地で教鞭をとったことのある世界的に有名な「教育の父」コメンスキーの遺品の数々が展示されているのが、この博物館なのだ。


地下が博物館入口となっている。土器とともに琥珀が展示されている。博物館の近くを流れるベチュヴァ川に沿ってむかし琥珀街道があった。バルト海で産出された琥珀とともに毛皮、金の装飾品が運ばれた。琥珀その他はウイーンまで運ばれ、そこからバルカン半島と現在のイタリアにまで運ばれ交易されたのでその道は琥珀街道と呼ばれた。
男女ネアンデルタール人旧人類)の人形がある。狩猟生活で疲れるのか男は若死にした。女性の方が大きく長生きしたと館長の秘書が説明する。子供を産む女性が強い時代だったようである。ネアンデルタール人の遺骨はモラヴィア地方数カ所で発見されている。
マンモスの骨が多数展示されているが、960頭のマンモス骨がこのプシェロフ市郊外で発見された。その辺りには25,000〜30,000年前にマンモス狩りをするグループが住んでいたと判明している。市街のプシェドモスティという地の丘の中に住んでいた。欧州の考古学では名の知れた丘なのである。


紀元前4000−5500年には小麦栽培が始まっていたのは、大きなツボのなかに麦跡が発見されて判明した。ブロンズ時代紀元2000―1550年のブロンズのお金は大きなワッカの形だ。商人が琥珀などを交易しながら踏み固めたて琥珀街道を形成した時代でもある。但し、当時の遺跡も残っていないし記録もないので、ただ琥珀等の跡から解明された街道である。
人口大移動初期の時代5世紀にケルト族がチェコに移り住んだ。ケルトの時代から歴史遺跡が多くなった。ツボを墓にした形跡がある。


この博物館がまだ城として機能していたとき使われた「黒い台所」と呼ばれる台所が保存されている。地下洞窟の中の台所なので長年の間に煤で真っ黒になっているから「黒い台所」と呼ばれる。

 
モラヴィア地方を中心として現在のポーランドスロバキアの領土にスラブ民族の統一を果たした大モラビア時代は東西南北 人の移動が活発になり金具作りの道具・土器・綺麗な装飾品等を使い始めた10―11世紀中ごろの遺跡が保存されている。その頃プシェロフ城の基礎と砦が作られた村の様子は壁にあるスケッチをながめるとよく分かる。そして13世紀には博物館前のいまもある広場の基礎が造られた。4世紀後になってその広場の中心に、両手でチェコ語のバイブルを差し出す姿をした司教の銅像が建てられ、現在は博物館となった旧お城の広場に立っているわけである。


15―16世紀に使用されたズブルの土製リリーフが置いてある。16世紀の砦のスケッチをみるとこの時代には二つのゲートタワーがあった事がわかる。今も市の紋章には門が描かれているがそのゲートである。


18世紀にはお城全体の大改造があり二つのタワーは取り払われた。その模型を眺めて気が付くが、アーチ付きコリドールのある建築は後期ゴシックで、城は石垣で囲まれていた。この石垣もおおく現存しおり、小さな城砦跡なので徒歩で一周ぐるりと観察してもそれほど時間はかからない。


チェコスロバキア時代に入って1928年までお城であったが、その後博物館に改造されてコメンスキー博物館と名付けられた。このお城の最後のチェコ人君主はモラヴィアで広大な領土をもっていたジェロチーン家であったが、30年戦争後の宗主国の命令でチェロチーンは追放されて、その後残った資産すべてをドイツ人貴族が所有した。それはチェコの主だった城も教会も同じ経緯をたどって、戦後のチェコ政府によるドイツ人追放の結果として政府の持ち物になる経緯まで同じであった。