コメンスキーの実績

「教育の父」コメンスキー(ラテン語名はコメニウス、1592−1670年)の部屋が館長自慢のものである。この博物館はコメンスキーの遺品を集大成して展示するという目的で設立されて、40年近く館長として働いてきたヒブルさんは多くの遺品収集を手がけてきた。
フレスコ画で美しい天井のこの部屋はオーストリア帝国調の部屋である。コメンスキーは教育関係ではチェコでもっとも有名な人物で、当時のモラヴィア地方の大領主ジェラチーン家の金銭的支援を受けて数々の栄光ある実績を残している。
バイブルをチェコ語に翻訳した、
宗教音楽も作曲した、
地図の作成、
思想の書物、
絵を書いて教育したから多くの絵本を残した、
手紙を残した、
(多数ある手紙はただの二枚がオリジナルのまま残っているが、その他は火事で焼失して、展示されているのは後になって書き直されたものである。)
幼児教育の重要性と物理の重要性を強調した、
(当時科学・物理が魔法だと信じられていた時代に、科学的頭脳の持ち主であったコメンスキーは、水パイプのオルガンとか反射鏡その他の工具道具を使って教育をした。)


30年戦争に敗れたチェコ人名士は多くが殺されたり国外追放になったがコメンスキーは欧州各国に出かけて考え方を広めた。これもチェコ人ジェロチーン家の支援があったから出来たことであった。


ハナー衣装と伝統の部屋も魅力ある作品を展示している。ここでも館長が収集された作品が多い。華やかなハナーの伝統衣装は刺繍が多く施され色も派手で、チェコで代表的な民族衣装だ。特にハナーの伝統では、結婚式に着飾る衣装は日本の着物の豪華さに等しいが、男女のかぶる帽子がチェコ歴史の王冠にも似てひときわ目立つ豪華さを誇る。


中身のない鶏の卵がある。これは、キリスト教が9世紀に伝播される前の話であるが、長く寒い冬が終わり死の神モレナから開放される頃、春が来て自然が生き返るのを表わすシンボルとして使った。わら人形を作り外で遊び踊り最後ははでに飾るわら人形を川に流したのだった。むかしこの辺りの冬の寒さは厳しく、今では地球の温暖化と暖房の完備で真冬でもそれ程苦痛でないが、電気もガスも水道もないころの生活では、「死の季節」冬をことさら恐ろしがり、暖かくなる頃、「生きかえる」春の到来を心から喜んだのだった。人形を川に流す習慣は、日本ではのどかな夏の風物詩であったが、こちらでは春を喜ぶお祭のひとつの催しだった。


オロモウツ県のなかでも土地が平坦で土地が肥えているお陰で農業が栄えた地方をハナー地域と呼び、豊かさが育んだ伝統衣装はチェコで最も美しく豪華なつくりになって伝統衣装といわれる。現在では、ハナーというとハナーの伝統舞踏が有名となり、伝統衣装で着飾った男女が室内の舞台か野外で舞踏する。
ハナー地域に25ほどのグループが結成されて伝統を守っているが、社会主義時代には団体活動は事実上禁止されていたので,伝統を守るのは大変な苦労であった。ひっそりと継承した踊りの文化は、だが、自由化後にはすぐ復活した。

通路には、古いハナー衣装の写真が飾ってある。1830年、1837年の絵画もある。


プシェロフの博物館では、チェコの大教育家コメンスキーを知るのと、ハナーの衣装を見るのが値打ちだろう。