「コルサコフ」

コルサコフを出航するとすぐに、Kさんの父君の本船での洋上慰霊が予定されている。
その後しばらく北上して、YさんとUさんの父君の洋上慰霊の予定。

だが、陽の落ちないまに慰霊できるのかどうか分からない。出航が大幅に遅れているからだ。

YさんとUさんの父君は天領丸(辰馬海運)という軍に徴用された陸軍輸送船の
撃沈で戦死した。陸軍に徴用された民間の船舶で2,200トンぐらい。

私の母はこの輸送船の写真付き情報を神戸の海員会館で5年前にもらっていたもの
を差し上げてとても喜ばれた。厚生省でも恐らく把握していない情報を得た母は
海員会館がまとめた情報開示の年に会館で丁寧に情報を頂いたのだった。
そして初めて母の兄が隆亜丸という輸送船で通信技師として働いていたのを
知ったのだった。

大阪商船で私の叔父は働いていた、アメリカ航路で無線技術者だったが、昭和19年2月に叔父からの葉書が実家に届く:
 これから出航します、みなさまご機嫌よう。

19年11月国から中千島沖での戦死公報が届く。
親は事情が分からないので、なぜ中千島なのか、どうして戦死なのか、びっくりしたそうだ。

母がこの海員会館を訪問してはじめて分かったことは、隆亜丸という山下汽船の
轟沈で戦死した事だった。大阪商船で働いていたのに、軍隊から徴用された山下汽船の輸送船で尉官待遇として通信をしていたのだった。


一時間後出航、二時間後出航とアナウンスは二転三転したがコルサコフ(大泊)港出航は
7時になった。そしてすぐに夕食。

夕食は焼鳥とジャガイモだった。旅行の前に予想していたより遙かに美味しい。
ビールとミネラルウォータなども厚生省の方と他の団体の方そして通訳を
している人が配ってくれた。ずいぶんサービス精神旺盛な方々だ。

出航が遅れてしまったので、洋上慰霊は明日に変更したはずが、夜遅くになって御霊の眠る海上が近くになってきたので個人的にという名目で甲板に人々が集まった。
関係する遺族の方は3名:
樺太東部海域は愛郎岬の沖で父君が戦没された二人、一人はコルサコフ近くの海上で戦没された遺族の方。
夜中の寒風の中、甲板上の洋上慰霊となった。