6月15日その1 

 朝食はビュッフェ方式で好きなものをいくらたべてもかまわない。いろんな種類のチーズとハム,生野菜,コーンフレーク,ソーセージ,半熟卵,スクランブルエッグ,パン,ヨーグルト,果物,そして最後にコーヒーや紅茶。シグマホテルの朝食は非常に美味しい。乳製品は格別に美味い。たまに見かけるバックパッカーの中にはこの朝食で一日の滋養をほとんどまかなう人だっている。

わが女性たちに国内添乗の仕事をされている方がおられて,今日の計画について詳しく尋ねられた。何時からなんじまでどこそこを訪問して、次の目的地に何時に出発、という具合にはわたしは予定していないので、少々困った…

朝の食事で腹ごしらえしてみなさんが部屋で少し休んでいたとき,わたしは長逗留のためにホテルに残している書物・書類・大型のトランス,充電器,炊飯器、衣服、靴等々の整理をした。チェコにきて数ヶ月単位で滞在しても困らない自分の生活道具一式である。

9時にホテル玄関のまえの駐車場に手配通りわたしたちのミニバスが到着した。今日の観光はまずヘルフシュティーン城と決めている。

このお城は日本人好みの歴史がいっぱい詰まっているお城で、交通の便が悪くて遠くからの観光客には少し計画しにくいが最寄の鉄道駅から廃城までの短い距離はタクシーを利用することも念頭に入れて、是非とも訪問して欲しい古城。

オロモウツからは東に約30km。電車ならばリプニーク・ナッド・ベチョヴォウへ行く。そこからまたベチョヴァ川にそって拓けた町のティーン・ナッド・ベチョヴォウまでバスを利用する。バスを降りてから傾斜のある山林を歩いて2km進むと高山に生息するカバの木の山林が開かれたところに先ずキャンプ場が現れる。夏ならばいつもキャンプ人たちがいるからすぐ分かる。そしてそのあたりから見あげれば目的の城壁が視野に入ってくる。

 今日の私たちは貸切バスで出かけた。目的地一帯は自動車が進入するのに許可を必要とする自然保護地区で、事前に許可を得ていなかったので丘の麓でバスを待たせることにして,地元の乗合バスに乗り換えて、城の近くのバス停で降りてから険しい坂道を5分程度歩いた。

山林の小道を歩き出すとすぐキャンプ場が現れ,山頂にヘルフシュティーン城を見上げることができる。いかにも古戦場という趣が漂うが,近づくにつれて広いお城の石垣がしだいに迫ってくるからだ。随分ときれいに補修されている石垣である。学生が夏休みなどにむかしから清掃・修理してきたのだという。

*ヘルフシュティーン城 
ヘルフシュティーン城では、夏をはさんで半年間いろいろな催しが行われる。例えば「中世の市場」では昔風の製品を作って展示する,「ヘファイストン」と呼ばれる鍛冶屋さんの大会とお祭りは今では世界的に有名で、芸術家が集まり、鉄の作品を制作して展示販売する。中世の戦いを再現する催しも大人気で世界各国から大勢の人々が集まる。

 お城の名前の由来は、ドイツ語の「防御する岩」だ。この国の中世ではラテン語かドイツ語がおもに使われていた。一般のチェコ人は長年農奴で読み書きができなかったしチェコ語を正式な文字として使用を許されない時代さえあった。というわけで、むかしの建物に残された文字はラテン語かドイツ語が多い。

堀を渡ると最初のゲートがある:
 ゲート正面上部をみるとアーチ構造である。教会や宮殿のアーチは表面がきれに装飾されているから分からないが、このお城は宗教建造物でないのと本格的戦闘に工夫を凝らした実践的な城に造られているから、建物の表面が装飾で塗りつぶす様な施しがひとつもなされていない。それでレンガと石の並びがはっきりと見られる。レンガを並べて、石とレンガで構成する重量建築物の重みが支えられるよう工夫されているのがよく理解できるというわけである。

また、ゲート正面上部少し左から少しずつ間隔をおいて4個大小の丸い石が見える。これは外から敵が投石機で放なった丸い石が突き刺さったものだと言伝えられている。このお城はもともと領主の居城として造られたのではなく、群雄割拠の時代に攻防を経る度にますます壮大に頑丈に改築増設が施された周囲全体が防御の砦となっている。

ゲートに入る:
 分厚いゲートの中に切符売り場がある。絵葉書を購入するとそれが入場券にもなるというからあり難い。ゲート入口内部の壁に歴代領主の紋章が並んでいる。13世紀最初の領主が使った紋章から眺める。数々の紋章のなかで中央あたりに置いてあるのをながめてみると、ズブルという野生牛の頭を紋章(1474−1553年)とした領主がいたのが分かる。

この15世紀という時代は宗教戦争であるフス戦争が燃えさかったころでチェコ全土で騎士団と雇用兵で構成されたローマ・カトリック軍と教会の腐敗堕落を批判する勇敢なチェコ人のフス派とのあいだで戦いが繰り広げられていた。

*ズブル
 その昔、どう猛な野生牛「ズブル」に襲われた気高い方が危機一髪ズブルを殺して助けてくれた命の恩人である農民に、欲しいものをたずねた。農民はズブルの皮を置く土地を頂きたいと申し出た。そして彼は、皮から長い長い糸を取り出して土地を囲った。そしてその土地をありがたく頂戴したが、それがヘルフシュティーン城の中でも中心部分であった、という伝承話がある。

ズブルに襲われた貴族が助けてくれた農民に大きな御礼をした伝説は、近くのプシェロフという古い町にもある。その町の紋章には現在もズブルの頭が中心に描かれている。プシェロフの地ビールメーカーのロゴにもズブルが使われている。ズブルは巨大でどう猛な牛でチェコ中世の伝承話にはよくでてくる。

 ゲート内部に据え付けられた大きなショーケースの中には、この辺りから発見された古代の化石・マンモスの骨・土器・矢じり・小型の埴輪等、また中世に使われた刀・鉄の装飾ドア・釘・カギ・大きな銛それに中世グラスの半分壊れたコップが展示してある。近くにはマンモス狩猟民が生活していた痕跡が発見されている。
 
*中世グラス
いかにも古風な中世グラス(ゴシック・グラスとも呼ばれる)は中世の手作りガラス製品で、薄くて軽いし明るい仕上がりが特徴である。ガスが利用されるようになるずっと前の時代だから薪を焚いてガラスを溶かしてグラスを造ったので温度が現代製造よりも低かった。グラスを太陽に向けて詳しく見てみると気泡がなかに残っているのがわかる。それらの大小の気泡が趣を増している。真っ暗な城や洞窟のなかでローソクの火をたよりに食事したり美味しいお酒を飲むのに,この中世グラスは武士どもにはとても神秘に映ったであろう。

 最近その製法が復活して山村の小さな工場で作られている。こだわりのガラス職人が中世グラスの破片を研究して製造方法を復活させたのだ。土産物屋さんでたまに見つけることができるが手作りの中世グラスは職人が多くいないので見つけたらお土産として購入したいものである。

ゲートをくぐりお城に入る:
 事務所があり写真を一枚撮影した。デスクに向かっている美しい女性に綺麗ですねと褒めたら、ポーズをとってくれたからだ。この事務所もゲートを取巻く城塞の中にあるが、この壁で最も大切な場所の壁のあつさは7−9.8メートルの厚さだ。ついでに城をぐるりと囲む壁の長さは95メートルで、もっとも高いところは14.5メートルもある。

 構内の庭には鍛冶屋さんの大会で製作された作品が所々にさりげなくおいてあり、さすがに「鍛冶屋さんの首都」と呼ばれるに相応しく特徴ある観光名所のお城になっている。鍛冶職人にとっては世界的に有名な大会が毎年開催されて大勢の観光客があつまるから腕の見せ所となっている鍛冶のヘルフシュティーン城なのである。

 お城の地図が立っている。最初の建立は黒枠で囲ってあるのでチェックしてみると、1306ー1312年に一番奥まったところ(最も高い地点)に築城されたのが分かる。こちらでは後期ロマネスクの時代である。チェコ中世の歴史でもっとも重要なカレル4世の父君がプラハを中心に活躍している頃の話である。とうじ既にチェコランドは銀採掘で欧州ではとても豊かな地方であった。

 縦の地図をながめる。その後も拡張工事が続いたことが理解できる。立て看板を読んでいるうちに,宗教建造物ではなく宮殿でもなく、群雄割拠の舞台になったお城にいるのを少しずつ感じてくる。大きな地図の向こう側の山の頂上に塔がみえるし、左右には分厚い城塞が続いている。

 進んで行くとまた堀があり次のゲートが現れる。堀の橋から、ゲートの中の石とレンガの建物に突き出た小さな木製の部屋があるのが見える。これは便所であった。汚物が掘りに落ちるようになっている。無骨なものだが,当時の防御目的のお城ではこの様に便所が造られていた。

 ゲートをくぐって進むと、たくさんの石造りの部屋が左右にあり更にいくつかのゲートが続く。
 
私はペルーの空中都市マチュピチュ頂上の建物群を想いだした。小さな石造りの部屋が迷路のようになっている造り方が似ているように思える。マチュピチュは世界的に有名な観光地でその歴史・文化的価値は最上級である。眺めも絶景である。そして私見では、このヘルフシュティーン城も相当価値ある文化遺産と思う。今後観光者に知られるだろうと,考えながら歩き続ける。

 ゲートを次々にくぐり抜けていくが頑丈な壁をこれほどたくさん施したお城を今まで見たことがない。兵士の部屋・牢屋と馬・犬の家畜小屋などがあった。豚は掘りのなかに飼われていたそうだ。本丸に辿り着くためにはくねった坂道を行かねばならない。馬が突進できないようにわざと狭く造られた道がくねっているというわけだ。

最後のゲートをくぐると本丸が目の前に迫る。ゲートを入って広場左側には城壁の中に鍛冶場がある。勿論現在も使われており、鍛冶大会になると職人が腕を振るう場所になっている。天気がよければ屋根のない広場でも鍛冶作業を行う。

*黒い台所 入口右側の城壁内には「黒い台所」があり現在発掘調査なので入ることはできない。何故「黒い台所」なのかというと、城壁の中の台所は換気が悪いので長年使われると壁が真っ黒になったのでそう呼ばれる。戦争目的に造られたお城ではどこにも「黒い台所」があった。

 本丸と書くが英語説明では宮殿となっている。適当な単語がないのか,英訳した人が「宮殿」と理解したのか分からない。だが大将たちが立て籠もった本丸である。
 この本丸はもとは独立して立てられた二つの頑健な建物がいつしか通路で結ばれた。最初は後期ロマネスク様式で築かれたようで、装飾が全くないのでレンガ・石の造りがはっきりと見てとれる。特に正面中央のアーチ型入口のそのアーチのレンガ造りはしげしげと眺めたり写真に撮ったりする価値がある。14世紀初期のオリジナルの部分でもある。最初の築城は1306―13012年になされた。

本丸正面右側のアーチ形入口から地下の洞窟に入る:
 先ず最初の部屋には、昔の装置が展示されている。二年前には上下にロールを組込んで金属を圧延する装置、コイニングの装置が展示されていた。オーストリア女帝のマリア・テレジア(1740―1780年)のコイン1870年製トラーのコインもあった。当時通貨はコインであったがトラーと呼ばれていた。世界通貨のドルの単位はこのトラーに由来する。但し、このお城でコインが造られたのではなくて、この部屋のものは皆チェコの歴史見本として展示してあった。合金を伸ばすために使ったロール装置はもっともっと古い時代ギリシャアルキメデスが発明したものとそっくりであった。

 洞窟は部屋に仕切られているが鍛冶づくりドアで続いており、鍛冶芸術がたくさん並んでいる。広島から来られた キモトさんの作品もある。Plasticと書いてある、抽象造形という意味と思うが...この英語も私には少し抵抗がある。

 刀のサンプルがある。チェコ人で日本に滞在して刀剣造りを学んだ人がいるので、その作品は日本の刀に似ているように見えて仕方なかった。対になっている女性の体の鍛冶作品がある。「夏の結果」とかいう題名で、夏の方はスマートな女性の体、他方は腹が出て乳房が大きくなっているから妊娠している女性の体であり、ユーモア作品であった。芸術家であれば時間をかけて見学したいところだろう。

 実によく管理されて鍛冶芸術を売物にした素晴らしい観光資源だと思った。その筈で、廃城の代表例として取り上げられるが、社会主義時代の1952年には国の文化遺産に指定されている。チェコでは社会主義時代初期から中期まで文化人が多く輩出した。とくに絵画,アニメーションを含む映画や,小説などの分野だった。

次に本丸二階に行く。
 二階にのぼり、やはり廃城であったのを初めて認識する。天井がない、装飾品も何も一切ない。ただたくさんの小さめのレンガ造りの部屋があるだけだ。廃城をきめた最後の持ち主が、だれも生活できないように、木造だった天井と家具をみな焼き払ったという。が、しかし、天井がなくても、部屋割りの壁はしっかり残っているし群雄割拠の時代に兵士が立てこもり戦ったであろう過去を思い巡らすのに不足はない。何も説明書がないのでよく分からないが、確かに最後は生活に不便な砦の塊として見捨てられた廃城であったろう。

兵器技術が発達して大砲が一般的になるとただ頑丈だけに仕立て上げた城は役に立たなくなった。

 社会主義時代後期から学生を動員してボランティアで壁とか堀等修繕してきた。社会主義時代はお金の社会でなかったのでボランティア活動はどこでもみられた様である。例えば,テニスコートなどスポーツ場も仕事の後と週末に趣味の市民が集まりボランティア活動で建設されたのだった。いまでは本格的に二階の修復が始まっており本丸裏側の修繕が行われていた。

*堀の物語
 むかしヤンという盗賊の頭がいた。チェコ宗教戦争に深く関わったが(チェコ歴史の最大の特徴のひとつ)、最初の宗教戦争はかのカレル4世が無くなった後のフス戦争で1370年から1415年まで続いた。ローマ教会に徹底的に破壊尽くされた領土の痛手は以後のチェコ領土統率の混乱と文化の低迷をもたらした。その混乱の時代の物語では,ヤンという盗賊がその混乱期に、このヘルフシュティーンを攻撃入城して居座ってしまった。やすやすと領主の座を射止めてしまった。宗教戦争ローマ・カトリックが派遣する外国軍の攻撃に一度も負けたことが無いお城であるが社会の大混乱に乗じた盗賊はまんまと居座った。

領主となったヤンは、ある若いカプルの結婚式前夜その女性を強姦した。初夜権の実行だったのかも知れない。が,その女性は嘆き悲しみのあまりお城の窓から投身自殺した。当時約15メートルの堀に沈んだ。そして、緑色の幽霊になって現れた、という伝説が有名である。女性の幽霊の伝承話は多くの古城に残されている。
 
盗賊ヤンの紋章が最初使われたのは何年か分からないが1457年までと書いてある。カトリック改革を唱えて火焙りの刑でころされたヤン・フスの「フス派革命」の戦争はすでに1436年に終わっていた。

本丸を出て前庭の見張塔に登る:
 木製見張塔の最上階から外を眺めると四方山に囲まれているからこのお城は盆地のなかの丘に建てられている。むかし近くのホスティンという村までモンゴルのタタール族が攻めてきたのは有名な話なので教会を眺望して探したがホスティンの巡礼教会は見つけることができなかった。

 北に山脈システム、南にカルパチャ山脈系が迫っている。この辺りもオロモウツと同じくその山脈システム間に位置している。むかし琥珀街道とよばれる道がありバルト海沿岸からこの辺りを通り更に西に琥珀が運ばれた。その道も目で探したが分からなかった。
 
骨董の琥珀をこの地方で探すというのも趣がある。実際私はアンティークの琥珀を近くの町プシェロフの骨董屋でたくさん見つけた。但し、琥珀ポーランドで探す方が良いだろう。


 さて、見張塔をおりて再び城内を歩く。本丸を出て二つ目と三つ目のゲートの間の広場にはレストランがある。そこで腹を満たすのが良い。また急な坂道を徒歩で下るからだ。

 廃城になった経緯について考えてみるが良く分からない。一般的な理解では、17世紀後半には武器弾薬の発達で、今まで3世紀にわたり拡張・改造を繰り返してきたお城であるが、新たな戦争に対しては役に立たなくなり住まわせている兵士と領主との関係が薄れてしまい、領主は別の宮殿に生活してお城に出向かなくなり、自然的に城が放棄されてしまったという説明もある。

 簡単な説明書によると、1656年ハプスブルク帝国の軍隊の命令で城の破壊を促すような時代もあった。パプスブルク家は一貫してカトリックであるのに対して、ヘルフシュティーンはフス派(つまり宗教改革派)支持であったから、宗主国であるオーストリア帝国からの弾圧があったのは想像にかたくない。だから17世紀後半に廃城になったとされるのかも知れない。さらに、1622―1662年はカトリックの司教がこの城を治めていたが、これも帝国からの圧力でカトリック司教が送られたのかもしれない。その後に欧州全土を巻き込んだ30年戦争後はほとんどのチェコ人貴族も司祭も追放されたので,ドイツ人司教が戦後まで管理をした。
めぼしいチェコの城や教会の運命はどこも同じだったのは旅を続けながら観察して、徐々に判明していくことになろう。

ただし、この城を司教はワインセラーとして使ったそうである。高位聖職者はたいてい自分の豪華なワインセラーをもっていた。ワインセラーの所有と趣味は豪華趣味によく似合うのだ。

 廃城とよばれるお城であるが,然し、紋章の記録では、最後の紋章が1620―1918年まで(チェコスロバキアとして独立するまで)使われていた、と記録がある。

*栄光の不敗城
 ヘルフシュティーン城は負け知らずの城であった。
フス戦争のときフス派擁護でオロモウツ(ドイツ人の影響が強かった町)と戦ったが負けなかった。
 マジャール人率いるハンガリー帝国の軍隊にも負けなかった。
 30年戦争でもフス派を擁護して戦い負けなかった。
 30年戦争後半にチェコ領土で略奪を欲しいままにして荒らしまわったスエーデン軍にも負けなかった。
 トルコ軍の攻撃にも負けなかった。

 所で,このお城の現在の管理者はプシェロフの博物館(コメンスキー博物館としても有名)である。これほどの田舎のお城に観光客を集客するような企画立案を実行しているのに敬意を払う。確かに素晴らしい遺産であるが、鍛冶というのを前面に打ち出し国際大会を毎年開催し、メンテナンスを進めているのは大きな仕事である。日本でも注目される計画的な村興し・町興しに似ている。

*鍛冶産業 チェコの鍛冶屋さんはいまでは西欧の鍛冶仕事を請け負っていて大忙しだ。ヨーロッパの宮殿やお城ではドアや調度・装飾品に鍛冶芸術を使うが,チェコの鍛冶職人の腕はいいし料金もとても低いので,輸出が多い。例えば200年前のものとか300年前のオリジナルの教会の門だとか宮殿の鉄装飾品などの保守や修理には、免許を得ている腕利きの職人があたるが、彼らの工房は忙しく、西欧からの注文も多い。数少ない地元の好景気産業である。

 ヘルフシュティーン城で1985年には、アマチュアの歴史愛好家が集まり、スエーデン軍が攻めてきた当時のパーフォーマンスをした。1986年にはハンガリー軍が攻めてきた当時の戦闘をパーフォーマンスだった。この時日本のテレビ局も撮影したらしい。この年には当時欧州で使われていた大型の投石機をレプリカで作り実演してみた。その大きさは、17.5メートル高さ x ベース面積(15 x 8メートル)であった。この投石器は1987年城外の丘に置かれていたが、倒れる可能性があり危険というので現在は取り払われてしまった。

お城の観光を終えて次の目的地に向かうバスのなかで考えてみた。オロモウツの友達などに言わせると、ヘルフシュティーン城はRuined(廃墟になっている)とだれもが表現する。オロモウツは伝統的にカトリック支持の都市であった。特にオーストリア帝国の大切な城砦都市としても重要視されてきた。女帝マリア・テレジアも再三足を運んで城塞建築を鼓舞したほどである。

 30キロの距離しか離れていないオロモウツとお城でむかしは宗教戦争をしたとは今は昔である。もっとも欧州の宗教戦争は略奪という要素が強かったのではあるが,宗教・略奪に翻弄され続けたチェコでは現在 事実上ほとんどの人は宗教を信じていないか又は無関心な人が多い。それは,社会主義時代に教会が軽んじられたのがひとつの原因かも知れないし,あまりにも長いあいだ外圧に抑えられてきたから神もへったくりもないと悟っているのかも知れない。結果的に国民全体として考えると宗教の束縛からは解放されていて,その点は日本と共通している。
 
とにかく私の現地の友達のなかに敬虔な信者はいない。紙面に発表される人口のほぼ半分がキリスト教だというのは私には信じることができないでいる。もっとも,それはほとんどのキリスト教国と呼ばれる国でもおなじ事であろうと思っている。統計と実際はおおいに異なるケースがある…
 日本とよく似ており,宗教的儀式に参加する人は伝統的な習慣として捉えていると,考える方が無難である。

*チェコ料理
お城構内のレストランで食事をした。魚料理が食べてみたいという声があって試食することになったが,チェコではプラハ以外では魚料理というと養殖のマスの油揚げ以外にはない。注意しなくてはならないのは切身のマスではなくて習慣的に一匹丸ごとが出されることになっている。マスにはとうぜん大小あってメニューではグラムで価格が表示されているが大きなマスの場合が多い。それでわたしたちは一匹を半分にして二皿に分けるように注文した。魚料理は一品なので,他にジャガイモを注文した。魚料理にはチェコ代表のクネドリーキーという蒸パンはあわないと言うのでジャガイモにしたのだった。クネドリーキーを食べたい、という方がおられたから、その人にはグラーシュというチェコを代表する肉スープを勧めた。グラーシュというコクのあるスープと昔懐かしい肉団子のようなクネドリーキーとは相性がよく、チェコ人の好みである。忘れてはいけないことだが、チェコ料理はたいていどんな料理にもビールがマッチする。ビールの味はもちろんブランドにより異なるのでいつも心掛けて自分好みのブランドを探すのがいい。
http://4travel.jp/traveler/fk/album/10021147/