6月15日その2

*巡礼教会
次はホスティーンの丘の聖母マリア教会という巡礼教会を訪れる。
今回はバスで移動するが,オロモウツからホスティーンに電車で行く場合だと先ずホリーン駅まで電車で南下し、そこからローカル鉄道(ディーゼル機関車)でのんびりと東のビスチツェ・ポッド・ホスティーネム駅まで行く。
ホリーン駅では乗継ぎの電車を待つあいだ地下通路につながる階段の壁に大きな絵があるのでしばらく見てみよう。
その地方の衣装を着た男性が大きな馬にまたがっていて,背景には工場が描かれている。1957年に描かれたいわゆる社会主義時代のsocial realismを達成しようというプロパガンダ絵画である。社会全体が変貌しつつあるときに生き残っている暗い時代の遺物。

ローカル線でビスチツェ駅が近づくと右手にカルパチヤ山系が視野に入ってくる。畑の向こうに小高い山々が並んでいるが間もなくローカル線の旅客が山の頂上近くの大きな教会を一斉に眺める。それがピルグリム教会として有名な聖ホスティーン教会だ。

目的の駅に着いて徒歩一分のバス停に向かって歩く。バス停手前で標識をながめて4キロの山道を歩くかそれともバスにするか決めるが、山道4キロの距離は徒歩では辛いのでぜんかい私はバスで行った。
バスは一度町中を走る。町では大きくてはでな宣伝が建物に描かれているのが目に付いた。1861年以来おもに木製の椅子製作に専念して世界的に有名な、Tonet社の宣伝画で、小売しますと書いてある。このビスチツェ市唯一の工業である。

オロモウツを出発してから電車とバスを乗り継ぎして二時間程度でホスティーン・バス停までたどり着く。森林の狭く曲がりくねった山道をバスは走って教会が見え隠れしている終点にたどり着く。ありがたい聖地の雰囲気が漂う丘の上の停車場広場である。
今日は団体だから、チャーターのミニバスに近くまで運んでもらい、自然保護地帯に入ってからは乗り合いバスに乗り換えて、この停車場に到着した。

*ホスティーンの聖母マリア教会
標高736メートルの丘の上、石階段の向こうに聖ホスティーン教会(正式名称は聖母マリア教会と称される)が神々しく聳えている。
石階段の下から眺めるこの教会正面は一度眺めたら忘れないだろう。いわく因縁のありそうな大画には,マリアがイエスを抱いている絵がくっきりと生彩を放つ教会なのである。この絵画はホスティーンのシンボルでひじょうに印象的だ。冠をかぶった母マリアと子イエスが天空から丘のふもとに雷をとどろかせている場面を描き、かって敵の大軍が攻めてきたとき奇跡の雷を落とし大雨を降らせて助けて下さった母子に感謝を表現する絵画なのである。

石段の左右も参道となっていて土産物店が並んでいる。お菓子や玩具が売られているがこれといって珍しいものはない。喉がかわいたら蜂蜜ワインを試すぐらいだ。

教会前にうやうやしく立って教会の入口をながめると、聖人たちのレリーフが彫られている(モールド製品)豪華にみえるドアのま上に、王冠をかぶるマリア様が左腕にイエスを抱いているがイエスの頭にも金色の冠がかぶさっているシンボル画はいっそう大きく強烈に視界に飛び込んでくる。
それは山の中に礼拝堂か教会がありその麓には林が広がり、イエスが左手に握っているものの中から稲妻が発生して麓に雷が落ちている瞬間を描写している。マリア様はしかも三日月の上に立っている。この特徴ある絵画が聖母マリア教会のシンボルとなった経緯に興味がわく。

その絵とドアの間にはこう書かれている:「モラヴィアを守り戦勝した」

さて、モラヴィアの田舎では観光スポットであってもたいてい、英語資料がない。せいぜい簡単なドイツ語訳があるだけという所が多い。ここも同じで、チェコ語の案内書を頼りに通訳の役目をしてくれているヤロさんの説明も加味して少し理解することができた。

紀元前2世紀にはこの辺りに琥珀街道の道があった。紀元前1世紀にはケルト人がホスティーンの丘に入植して土のマウント(1800x15m)を築いた。ここに何世紀もかけて、ケルト人はケルトのラデガスト神を祭るモラヴィアで最も大きく古い教会を建てたと言伝えられている。
時は移り6世紀に入ってスラヴ族がモラヴィアに入植、9世紀にはスラヴ人モイミル族がモラヴィア地方を中心にして広大な領土を支配した。その豪族の領土は「大モラビア」または「モラヴィア帝国」、それとも「大モラヴィア帝国」と現在は呼んでいる。

*ツィリルとメトディウスがキリスト教を布教した
863年にギリシャからキリスト教布教の為に2人の宣教師が仲間を連れてこの地にはるばるやってきた。日本歴史の仏教伝来とおなじく,863年のキリスト教伝来はチェコ歴史上大切である。その兄弟の像が聖母マリア教会入口の前に建っている。兄弟はギリシャ人と考えられているがスラヴ語を話し仲間と一緒になって布教活動を続けた。そしてこの地に十字架を立てた。

*聖母マリアの奇跡
1241年モンゴル帝国タタール族が今回は数万の軍勢で戦争を挑んできた。敵は勇猛果敢で馬術に長け,殺戮・略奪はすさまじく地元の人たちや武士たちを殺すと死体から耳を切り取った。馬を駆り集団攻撃をとくいとするタタール軍にくり返し攻撃を受けてきたヨーロッパは恐れおののいていた。この地の人々は術もなくホスティーンの丘に逃げ込むより方法がなかった。

そして1241年には奇跡が起きるのである。日本の神風と通じる歴史物語だが、ホスティーンでは激しい嵐が起こり雷が敵タタール軍のテントに落雷した。タタール人は散り散りになって逃げ去っていった。
とうじこの地ではスラヴ語によるキリスト教布教のお陰でマリア信仰が人々のあいだに広がっていたから、この嵐と雷はマリア様が奇跡を起こしたのだと信じられるようになった。そのような雷伝説が、1665年になり年代記に初めて記録された。

 13世紀後半といえば,わたしたちは思い出すが,日本では二度にわたってモンゴル帝国の元軍攻撃を受けたのだった。鎌倉時代のわが国は,神風により救われたと言い伝えられている。モンゴル帝国東西の軍隊による領土拡大を目的とする侵略は同じような時代に同様な奇蹟により失敗したというのも歴史物語的な奇遇でなかろうか。

この辺りを支配していた領主は1545年にはキリスト教布教の人たちに、10年間の金銀採掘の権利を与えた。チェコは16世紀というと神聖ローマ帝国の帝王カレル4世の時代をとっくに終えフス戦争も終わっていた。

いつしかキリスト教信者たちの手により、神々しいホスティーンの丘に木造礼拝堂が建築されたのだった。 布教がスラヴ語で行われたおかげで素朴な人々にもいまではキリスト教が理解できて宣教は成功していた。

その後 宗教闘争が原因による30年戦争が終わって(1648年)から人々は、この聖なる丘に巡礼を開始した。領主が後年チェコ国家の木となる菩提樹の木の板に、キリストの絵を描くよう命令を下しそれが後々ホスティーンのシンボル画となったのである。
1658年には、チャペルは改造され教会に格上げされ、その年にバジリカ形式の丸いタワー(8x6メートル)が付設された。この木造建築は30年戦争のさなか1620年にプロテスタントの一派により焼かれてしまったが,教会は後年再建され、現在までオリジナルの形を留めていると伝えられている。

またマリアの絵はこの教会内部にも同じ絵が描かれた。「モラヴィアを守り戦勝した」の文章も主祭壇の上部にも書かれている。マリア様は奇蹟をおこして異教の軍隊からモラヴィアを救って下さったのだ。

以上がチェコ語パンフレットの説明に自分の知っていることを加えてメモした,雷伝説である。

*十字架の道
いかにも巡礼教会だといわんばかりに、この聖なる丘には、「十字架の道」と呼ばれる小道に沿って石造りの建物がたくさん並んでいる。裁判でイエスがはりつけを宣言されるところか始まり、最後に神になるまでの絵が建物の中に飾ってある。ていねいにも1928年には新しい「十字架の道」まで建築された。長い年月ドイツ民族に支配され続けてきたチェコは1918年に「チェコスロヴァキア共和国」として独立を果たして自由を謳歌していたころ追加されたものである。

十字架の道は新旧辿って行くともう一度教会のほうに出てくるようにレイアウトされている。30分かけて広々とした丘の道を一巡りすると巡礼した気分になるから霊験あらたかな聖地である。たんに一人の人間が殺されたのではなくて,後に神様となり世界文明に大きな影響を残した人物のむごたらしい殺人への行程模様を描いている生々しい絵画をたくさん見学すればだれだって恐れおおくて身が引き締まるものだ。

ところで,巡礼というと多くの古寺をゆっくりと順をおって訪ねて祈る旅のことを指していると,日本人は考えるが,ピルグリムという単語は少なくともチェコでは意味が異なっているように思う。大勢の民衆が繰り返し訪れて祈る特別に大切な教会を巡礼教会と呼んでいるようである。その場合、「十字架の道」が何らかの形で存在している教会のようである。

幾世紀にも渡り、いかにも素朴な人々が神を信じて巡礼してきた有り難い宗教建築物として印象に残るホスティーン教会であるが,なんと言ってもシンボルの大画面が神々しく素晴らしい。夏でも冬でもそうである。

*マリアと幼子イエスの絵
もう一度ホスティーン教会のシンボルの絵を考えてみる。16世紀にトルコ軍が進軍してウイーンまで攻め入ったが、このトルコ軍はウイーンもチェコランドも征服できなかった。

イスラム教のシンボルは月である。この教会のシンボルとなっているマリア様の絵ではキリストを抱いているマリア様は三日月の上に立っている。イスラム教に勝利したシンボルとしてマリア様が月の上に立っているのだと聞いた。それと、キリスト教東方正教のシンボルも三日月である。だから、この絵は、東方正教に対しても勝利した意味が込められているとも理解される。つまり,ギリシャキリスト教が最初にモラヴィアに伝来し,そのご何回も宗教戦争があって結局はチェコ全土にわたりハプスブルク家によりローマ・カトリック教に改宗させられたが,その影響もありそうである。チェコランドはハプスブルク家によりドイツ化を強要させられたのだった。

マリア様が三日月の上にいる理由は,さらにもう一つあって,マリアは処女のままイエスを生んだが,三日月はその意味があるのだと,オロモウツで尼僧からきいたことがある。その意味深い教えは私にはとても解釈できないで困っている。

マリア様は尊敬されているのに神様ではないから、冠をかぶせてもらったそうである。シンボル画の幼子のイエスも冠を頂いているが、罪を背負って地上に生まれてきてまだ神様になっていないから冠を被せてもらっているとのことである。

*翻訳について
丘の上の教会正面に向かって右手に大きな建物があるが、通訳は「お寺」と説明した。巡礼客が宿泊する建物だ。Templeをこちらでは巡礼の人々が宿泊する建物を指すようである。こちらの英文資料の中にたまにtempleという単語がでてくるので気になっている。自由化後すでに15年も経たチェコであるが観光資料で英語化がゆっくりと進んでいるが、翻訳の単語の統一化はまだ進んでいない。30年前の日本では稀少言語の翻訳において80%も正しく翻訳されればよしとされていたが,チェコではまだその段階で,たまに見つける日本語訳の資料を読んでみるとたいてい20%以上は意味不明だ。ある観光局の部長から聞いた話では,いまだ翻訳にお金をかけられないという事情もあるそうである。

そのTemple(宿泊施設)の周りにレストランが二つある。教会の運営するレストランで安い。しかもベランダからの見晴らしが良くて、カルパチャ山系や森林や丘と丘のすそのの平原を眺めると言う按配だ。この地方の伝統的味付けのプラムソースの肉料理は油っぽくなくて食べやすかった。
http://4travel.jp/traveler/fk/album/10083901/

 わたしたち観光グループはここでも予定の時間を過ぎてしまった。ミニバスはオロモウツ市の旧市街近くで乗り捨てて急いで広場に行く。

*オロモウツ大司教宮殿のコンサート
 観光局事務所の掲示板で知ったが、今夕は大司教宮殿でクラシック音楽のコンサートがある。開演までにホテルに戻り着替える時間はないが,わが愛おしい日本の女性方はみなぜひとも本場のコンサートを味わいたいと意見が一致、さっそく宮殿へ足をのばした。男性に伴われた美しく着飾った美しいチェコの女性たちが古典音楽をきくために入場する中にまじって妻も含めた日本女性の団体は,かわいそうに旅姿のままホールに入り席に着いたのだった。

 大司教の宮殿というのは御殿であったから装飾豊かな記念的建物だ。西欧カトリックの「大司教」というのはとてつもなく高い地位であったが、オロモウツの司教と大司教は特別に権力を与えられていた。オーストリア皇帝の戴冠式にもつかわれたことのある由緒ある宮殿である。

古都オロモウツの特徴のひとつが大司教座の存在と,もう一つ古くから大学の存在である。宗教が牛耳っていた頃の大学はどこでもそうだがオロモウツ市のパラツキー大学という名門も大切な学科は「神学」である。とくに中世時代は「神学」が重要な学科だった。「三位一体」の意味を知るために神学生は学んだ。オロモウツを歩いているといまでも時々神学生に出逢う。

パラツキー大学の建物もじつに豪華なものである。数年前に改築を完了したかっての礼拝堂は,バロック式の代表と表してかまわないだろうと思うが,バロック式メリハリ装飾の固まりで金ぴかである。小太りの天使がたくさん舞っているような部屋になっている。そのコンヴィクトという部屋でもコンサートが開かれる。

後から聞いた話によると,わが女性たちは古典音楽のコンサートを経験したことがことさら嬉しかったそうである。本場で鑑賞するクラシックはやはり違ったそうである。彼女たちがいたオロモウツ大司教宮殿が、チェコの歴史上いくたびか大舞台になった由緒ある御殿だという説明はする暇もなかった。

要塞都市の面影
http://4travel.jp/traveler/fkcz/album/10039141/