6月16日その1

市壁

 一時間トラムを借り切ってオロモウツを巡る手配をしていたから,懐かしのロマンチック・トラムに乗り込むために所定の場所にでかけた。歩いても近いが,わがご婦人方に遅れが生じると困るので国鉄駅前のターミナルから真新しいトラムバイ(市電をチェコ語でトラムバイと呼ぶ)に12名乗り込んでコルナという停留所まで行く。そこからアンティークの市電が待っている約束の場所に歩いた。こつぶな石を敷き詰めた石畳の道路に路線が埋め込まれていて,レールに沿って歩くのだから道に迷うことはない。約束の場所でわたしたちを一台のトラムバイと中年の車掌さんが出迎えてくれた。そこで皆さん記念の写真を一枚撮影した。

*市電(チェコ語ではトラムバイ)
チェコにおいて鉄道は1840年代から普及していたが市街電車は1905年から1933年にかけて大量に製造されて都市での大衆の足となった。オロモウツ交通局に保管されているトラムバイ223号は1930年に製造された今ではアンティークで電機部品はシュコダ社のものである。内部はなにもかも木製である。

チェコはヨーロッパ産業革命の時代いまだハプスブルク家またはドイツ人に経済も支配されていたが欧州大陸のなかでは目覚ましく工業が発展したチェコランドだった。製鉄業が強く,工作機械,武器製造,繊維工業,砂糖製造,靴のバーチャ社などはとくに発展した。独特の展開をしたチェコ音楽は世界的な名声を確立していたし,チェコ映画の堂々たる聡明期でもあったし,文学ぜんたいが流行した時代でアールヌーボの旗手ムーハが大活躍した。アールヌーボ調の素敵な帽子やファッション衣装等もチェコで生産されて西欧や米国に輸出されていた。1918年には国家形成を果たして第二次大戦までは,将来にたいする大いなる期待をよせることができたからチェコは栄光に満ちあふれていた。工業、音楽、文学、芸術、ファッションなど世界の注目を浴びていた。

ほとんどのチェコ人は貧乏だったが日本の大正ロマンによく似て夢のある時代だった。そんな栄光の時代に製造されて現在まで生き残っているのがトラムバイ223号なのである。

トラムバイ223号は現在記念物とし特別な建物に大切に保管されているが貸し切ることができる。オロモウツの中高年の人びとはこの貸切りトラムバイが走っていると,足をとめてしばらくこの市街電車をながめる。ご高齢の方々はしぜんに頭のなかで華やかな夢を描いて暮らした時代を連想し,中年の方は暗い社会主義時代に大衆娯楽であった映画を観るためにこのトラムバイに乗って町中の映画館にでむいたことを連想する。社会主義時代の半ばまではまだ地球温暖化は現れていなかったので冬の寒さはひじょうに厳しかったが,それでもトラムバイに乗って町に繰り出すのは楽しみだった。映画産業は繁栄しチェコ独特な名作が次々に世にでていた。地下のレストランでビールを飲み交わし、社会主義に対して不満を言い合ったりしたこともあったが、今になって想いだすと懐かしい時代だった。

*ヨゼフとの出会い
 初めてわたしがチェコでトラムバイに乗車したのは1968年暮れのことだった。チェコ人による自由化改革「プラハの春」がソ連の介入で蹂躙されて間もない頃で,人びとは息を潜めて生きていた。それがほんとうに日々実感できるのだった。後に自分の人生で大切な友人となるヨゼフの一軒家に二週間ほど泊めてもらっていた。

 ヨゼフのお父さんは建築会社を経営していたが共産党政府に没収された以後、国営の鉄鋼会社に勤めていた。無口な技師は早朝勤務に出かけ帰宅後は自室でひっそりと過ごしていた。ヨゼフのお母さんはソ連軍介入のまえに交通事故でなくなっていた。ヨゼフのお父さんが設計して建築した自宅の半分は仕切で分離されており他人に貸していたが,それが社会主義というもので,一戸建ての家屋に一家だけが居住することは許されず社会主義の理念に仕方なしに従って,国家の要求に応じて家屋半分を国に貸していたのだった。家屋の半分は他人に貸していたが,みな押し黙るように暮らしていたからだろう、借家人に会ったこともなかった。ヨゼフの家族も裏庭にでたことさえなかったように思う。

 大学生のヨゼフとよくビールを飲みにでかけた。地下に潜って飲むという経験だった。大勢の学生が集まってワイワイ賑やかにやり,そしてソ連兵とソ連の悪口を言い合ったり共産主義というのは軍事行動の政治なのかと立腹しあったりした。地上ではときどきソ連兵がチェコ人に罵倒される事件も頻発していた。真冬の1月プラハではソ連に一人抗議した学生が焼身自殺をして数日間だけたいへんな話題になった。

プラハ・ヴァーツラフ広場のつきあたりにある博物館の正面にはソ連軍が戦車からたたきこんだ砲弾のあとがいっぱい残っていた。とうじのプラハはまるで廃墟であった。夜でも電灯は点いていないし人通りはなくひっそりとして首都というのにまるで死んでいた。明るさがまったく失せてしまっていた。

男女学生の集まりを終えるとトラムバイに乗って帰宅した。223号にも乗ったはずである。223号は1930年に製造されたエンジンで最初はプラハで使用され,古くなってからオロモウツに移された。私がオロモウツで1968年のくれに最初に乗ったときにはすでにアンティークだった。

今日の話し。貸切りのトラムバイは旧市街の一部を走る。今回懐かしく車窓からながめたのはユダヤ人墓地だった。戦前はかなりのユダヤ人が住んでいた。チェコにも都市には多くのユダヤ人が暮らしていたが戦争中にナチにより強制収容所に送られて大勢が殺されてしまった。ユダヤ人は戦争前に数万人がオロモウツにいたが戦争が終わってみると数十人程度しか生き残っていなかったとされる。悲劇の歴史を生きたユダヤ人はチェコの都市でも厳しく規制を受けて生活し、今はユダヤ人地区だとかユダヤ人墓地が記念的に残されている。ユダヤ人観光客が彼ら先祖の御霊に祈りを捧げるべく残されているシナゴーグに集まる光景を見ることができる。
むかしオーストラリアでユダヤ人実業家に三ヶ月もお世話になったとき、彼らの仕事と生活をつぶさに見ることができた私にはユダヤ人に対する同情の気持ちが強く心に刻まれることになった。歴史の悲惨さと人類の愚かさを痛感したのはユダヤ人たちとの交流が最初だった。
少し敷衍しておきたいが、私が宗教にこだわれない理由は、その後にインドネシアやマレーシアでイスラム教の人たちと親しく話す機会も多くあったし、ペルーでは観光だけであったが、人々の優しい気持ちがはるかインカの教えに由来しているのを知って、ひとつの文明に生じた宗教や教えに偏見を抱くのはよくないと思うようになったからである。

再び旅の話し。オロモウツの郊外にユダヤ人墓地がいまだにあるが、近くに新興住宅地もある。最後はソ連兵の宿泊施設として使われていた大型アパートの群れが崩されてその跡地にモダンな家屋がたくさん建てられていた。ソ連兵がオロモウツを闊歩した時代はもう過ぎ去り跡形もない。

*ソ連
ソ連兵というと想いだすことがもう一つあるが、人気のない東方正教の教会がオロモウツ市内にもひとつだけ建っている。ソ連兵たちは駐留した時代、この教会に出入りしていた。これは市民にとりまったく訳が分からないことだった。社会主義理念というのは宗教を否定するか無視するので、教会には満足に予算がまわってこないから教会の建物は保守がまったくできずにいた。ところが、この東方正教の教会には多くのソ連軍人が出入りしており市民は不思議そうに彼らを眺めるだけだった。我々はそのように教わっていないのに、社会主義は宗教を信じてもいいのか、とオロモウツの人々は不思議がった。正教は戦時中に信仰厚い人々から集めた寄付金でロシア軍に戦車を贈ったという話しもあるから、ロシアも金銭的都合によっては宗教を抑え付けなかったのがひとつの理由かもしれない。

国鉄オロモウツ駅の近くにトラムバイとバスが進行方向を反対に向けるロータリーがありその近くに我が友ヨゼフの二棟のビルがある。ほとんどの建物が古いというのか,新しいビルがほとんどないチェコだから「中世の面影を色濃く残す」という形容は当たっているがオロモウツ駅まえには自由化後に建てられたビルが3棟あり,そのうちの2棟がヨゼフの持物だ。かれの高層ビルを背景にしてアンティークのトラムバイの写真を撮った。かれにプレゼントするために。

223号でまた旧市街に向かった。10分もするとテレジアン・ゲート(歴史的記念建築)を左にみて次ぎに右側に長い要塞の壁が見えるところに停車場がある。ここで降りて右の方に進んでも旧市街にはいることができるが私たちは貸切りトラムバイの発着場所まで乗った。

そこから一度ホテルまで歩くことにした。車窓でながめた市場を見学したいというご婦人方の意見がつよかったから,旧市街の市庁舎や「聖三位一体コラム」を横目で眺めながら広場を通り過ぎ市民の買物の場所であるマーケットにたどり着いた。青空のもと野菜や果物が売られていて今晩のおかずにと買物客でごった返している。奥にはかんたんなバラックが建っていてその中はこまかくブースに区切られ、衣装・カバン・靴・玩具などを売っている。中国製やベトナム製の品が多く売手にはベトナム人もいる。ここで自由行動の時間をもうけた。安くて美味いサクランボやトマトやスイカを買って食べるのは楽しいことだった。

*古都の市壁
そこから森林公園にでると右はモラヴィア川の支流が流れ,左手にはずっと要塞跡が続く。ところどころに深い濠も残っている。仰ぎ見るばかりに高く分厚い市壁はずっと彼方まで続き、美しく、森林公園の風景に溶け込んでいる。手前の林と壁の奥の古い建物群を背景にして、広い公園のどこでも絵になる。壮大な要塞都市の面影が漂い、夏の自然の景色が美しく映えている。この辺りからの眺めは冬には白一色の雪景色となり晴れていると格別に写真写りがよい。そこは四季折々、中世都市オロモウツでも最も美しい眺めである。

散策に時間がかかったがバスで次の目的地に出かける前に,駅前のシグマホテルに戻りトイレ休憩する者とカメラの電池をとりに部屋に入った者もいた。団体ではトイレ休憩というのを考えておくのがとても大切だ。たいていのトイレは有料なので小銭を準備しておくのも忘れてはいけない。

 ところで市民の足についてだが,市電というのは単語の意味する通りで市内か近くの市街を走る、そのような市電がひとつの足となっている。観光客はオロモウツの場合には市電に乗れば見学したいところにはたいがい出かけることができる。市電はレールの上を走るから、市内・市街のどこでも行ける訳でなく、市民にとって住宅に近いのはバス停である。市民の日常にはバスが欠かせない。
市外に出かける場合はバスということになる。聖なるコペチェックの丘は市から10km北でトラムバイのサービスはないのでバスで行く。次の目的地は聖なる小丘コペチェックである。
 
国鉄オロモウツ駅にごく近いバス停から11番のバスに乗る。この11番は頻繁に発着している。平日は通勤客と買物客が多い。切符はバスの中で運転手から購入できるが、事前にバス停の近くにある機械で購入してもよいしキオスクでもホテルでも求めることができる。


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