6月18日

 今日は魔女狩りの資料を展示しているので有名なヴェルケー・ロスィニに一人で行くことを決めていた。 

 週末のローカル電車もバス運行も極端なほど少なくなるので気をつける必要がある。とくに夕方からは不便で,タクシーの利用しか足の方法がなくなる場合もある。タクシーは都会以外ではとても少なくて駅前でお客を待っているわけではない。電話で車を回してもらうということになるが,それができないと面倒なことになる。そんなわけで帰りの電車の時刻も調べてからでかけた。

*ローカル線
 快晴に恵まれた日だった。のんびりとくつろげるローカル電車の旅は快適で車窓に映る風景と古い家屋や教会,それと駅をながめていると遠い国にいる自分を発見する。風景だけをとっても日本のながめとはどことなく違っている。畑も花も森も色彩も広さなども少しずつ趣が違うし,古めかしい建物や駅の造り,教会などはまるで違っている。電車の中にいる地元の人たちの顔かたちはアジア系とは大いに異なる。電車のなかできこえる人々の会話といえばまるきし分からないが,外国人にはひどく難解なチェコ語なのだ。一人旅で知る異国情緒というものである。

 駅構内に流れる列車の発着をしらせるアナウンスはかくべつに異国情緒を伴うと私は思う。アナウンスの内容はと言えば決まっている。テープの声だからそうなのだが,聞き慣れてくるとかなり理解ができる:

ホーム何番に,どこそこ行きの電車が,何分後に到着します,ご注意下さい。

 ところが物事の常で多少なりとも困る事態が発生する。目的地のヴェルケー・ロスィニに辿り着くのに乗り継ぎが必要だとは知らなかった。オロモウツから出発したジーゼルは山脈の入口にあたるシュムペルク駅が終着駅だった。この駅で駅員に尋ねるのだがどうも様子が変であった。

 この駅から北に向かう路線はさいきん私鉄となっていたのだった。オロモウツ県では数年前から路線バスはベルギー資本の会社が一気に強くなっていてバスの運行本数とか以前とはまったく異なっているが,この会社はローカル鉄道をも買収したのだった。その動きがあるのは聞き及んでいた。チェコ国鉄は一部を民間に払い下げたいという意向があるのを私でも聞いていた。日本の田舎の鉄道を第三セクター化したのと同様な動きがチェコでも進んでいるのを知った。目的地に行くのに民営化した路線を利用するのにはシュムペルク駅で市営鉄道に乗換えが必要なのだと悟る機会だった。


一時間の待ち合わせだったから駅構内の簡易食堂でコーヒを飲む。もっともポピュラーなトルコ・コーヒーを所望した。

実際にコネックス社の路線でジーゼル電車に乗るのは初めての体験となった。

*ヴェルケー・ロスィニ
目的地のヴェルケー・ロスィニ駅になんとかたどり着いたのは昼前だったからレストランか食堂を探したが,案の定どこも土曜日も午後に近くなって閉じていた。ホテルのレストランさえも悔しいことにもう閉じてしまっていた。腹ぺこ覚悟で「魔女狩り」の展示場所を探すことに決めた。

この地は観光地なので両替屋がある。ドイツ人が換金をしていたから,ドイツ人たちに魔女狩りの展示はどこにあるのか尋ねたが分からない。換金窓口で働いている地元の女性に尋ねても知らないという。仕方ないから友達に携帯電話で助けてもらった。


やっと分かったことは,「魔女狩り」を専門的に展示するような博物館もないしお城もないということだった。そこまで知るとしようがない。ヴェルケー・ロスィニで有名なのは和紙そっくりな工程で紙を作る製紙会社か,温泉か,お城だけだ。お城に行くことに決めた。10分も歩くと大きなお城が見つかって,一息つきたくなり紫煙を空中に揺らせた。


お城の入口には多くの観光客がいた。お城観光は昼休み中だったから林のイギリス風の庭園を散歩したり写真を撮って時間の経過を待つ。昼休みが終わって係りの人たちがデスクに戻ってきたのは12:45だったが入門は13:00というので,質問をしてみた。戻る電車の都合で一時間程度しかみてまわる時間がないので,魔女狩りの部屋にまず行きたいがお城のどの部屋にあるのか、と。彼女の素っ気ない返事は,魔女関係の遺物や資料はいっさいがっさい近くのシュムペルク博物館に移動された,であった。

気が抜けてしまい,ガイドの説明に注意を注ぐことができずにお城見学は終わった。オロモウツに戻るのに決めていた電車の時刻を過ぎると次は4時間後だから,ガイドについてまわったのは40分で切り上げざるを得なかった。


*チェコ歴史
もしもチェコ歴史を少しでも理解し文化をしりたいばあい,宗教関係を調べないとひとつも進まないだろう。クラシックのチェコアニメが頻繁にとりあげた魔女だが,本家本元の魔女を知るのも必要なことと思う。

*異端
背景から書いてみたい。
14世紀後半には中世のチェコ歴史上もっとも栄光に輝いたカレル王が亡くなっていた。黒死病が大流行しヨーロッパぜんたいの人口は半減した。モンゴル帝国タタール民族の攻撃をうけて人民は疲労困憊していたうえに14世紀のユーラシア大陸の寒冷化は、農業生産の低下をもたらした。人びとは食うや食わずでひっそりと暮らしていた時代でヨーロッパ封建社会の危機であった。


 キリスト教はそれ以前の宗教的教義とは一線を画し聖書という素晴らしい作品をヨーロッパの人々にもたらし多くの人民がキリスト教をかたく信じるようになった。電気・ガス・水道もないころ,大多数の人々には夜は真っ暗であった。民族大移動による混乱・略奪も,宗教のもたらす破壊・強奪も,災害であろうと病気だろうと神の仕業か魔女のせいとして捉えられても不思議ではないヨーロッパの風土だった。


 はじめに「異端」という言葉があった。異端裁判に発展して,イエス・キリストを信じなければ異端とみなされ形だけの裁判により異端者は殺された。キリスト教の本山であるローマ・カトリック教会が清廉・清貧を守っていた初期には反キリスト教徒を異端として扱っても古代のことで仕方なかったであろうが,徐々に聖職者や貴族の私欲がふくらみ宗教は堕落していった。神の権力がどの地位にも勝り、何をしても構わないと言う傲慢さが聖職者に信じられる時代になると「異端裁判」で,宗教に関係ない者も密告であろうが噂であろうが異端の烙印を押してしまえば火焙りの刑で人々を虐殺してとうぜんという信義がまかり通っていた。

 それでも信じる神のために拷問を受けたり火焙りで殺された人々は殉死であったからまだましであった。あとで聖人に祭り上げられる可能性もあった。聖人という肩書きもまたキリスト教の神々性を振りかざすために物語を作り上げるためのものだった。聖人に祀り上げるというのは、端的に言えば、キリスト教と聖職者の利益のためだった。


 ほとんどの生計は農業であり,チェコ人民のほとんどは農奴であった。農機具が開発され土地利用の方法が発展しても,天然災害には弱かった。飢饉が襲うたびに農奴は神に祈り豊穣を祈ったであろう。黒死病という世にも恐ろしい病気が繰り返しヨーロッパ各地を襲ったのも不幸だった。高い地位にある聖職者や王侯貴族は税金を厳しく取り立てて自分たちの生活を守ることはできた。


 が,人類の愚かさなのだろう,高位の人はますます利権を利用して無知な民を犠牲にしていく方策を考える。人を苦しめるのは楽しく思うようになるのではないか。一度人を殺傷したり他人を陥れたりすると、しだいに罪を感じるどころか理屈をつくり自分の悪事を正当化する... 賢明なる犯罪者には独特な理論があるように...(私は社会人生でなんかいも人が他人をおとしめる場面を見た。それで考えたが、犯罪者の心理には独特な思考作用が働くようなのだ。犯罪者心理は恐ろしいと思う。)

*魔女
魔女にまつわる迷信は原始時代には恐れられたとしても宗教に関係してはいなかったが,異端の定義が魔女は悪魔と結託してキリスト教を信じず悪魔の神に奉仕するもっとも罪深い異端である,と教皇が宣言するにいたった。それからというものは国も教会も領主貴族も魔女を見つけて火焙りにする,人々は恐る恐る見学するというようになった。悪いやつが苦しみ殺されてとうぜんという理解をした。魔女旋風のピークは16ー17世紀だったとされている。教会批判は頻発するし農奴一揆もいつものことだったから,いくら神学の達人であり賢くて地位のある聖職者も苦労した時代。端的に言えば自分たちの贅沢な暮らしを続けるための軍資金が欲しくて,もうかる仕事を作り上げたのだった。この悲劇の魔女狩りは一面であり,教皇がやったいかがわしい取引にはもう一つあって,いわゆるイエスの髪毛とか爪とか血,さらには聖人の使った遺物を「聖遺物」として取引につかい暴利を貪ったことである。
 「聖遺物」も馬鹿げたキリスト教の商取引の商品であったから現在はたいてい教会のひっそりした場所に展示されている。いくら何でもイエスの血が現実にあちこちに残っているのは信じられないことであり,最新技術で鑑定すればいっぺんでそのペテン商品の事実が判明するだろう。教会はますます苦しい立場に置かれていると,思わざるを得ない。


16〜17世紀は「危機の時代」とも言われる。ヨーロッパは宗教対立による三十年戦争を初めとする戦争や,黒死病のくり返す流行,魔女狩りの最盛期であった。地球の平均気温が低下した寒冷期でもあったから凶作による餓死もあちこちで見られた。こちらの宗教戦争というのはふつうの人民にとっても悲惨なもので、略奪・強奪・殺人などの犠牲となり村は焼かれた。死体がゴロゴロするようなシーンは日常的でさえあった。大多数の農奴にとってはじっと耐えて生き抜ければ幸いであった。この土壌・風土は、比較すると平和な歴史を楽しんだ地域や日本とはかけ離れている。


*魔女狩り 
魔女狩り」(森島恒雄著。岩波新書)が詳しい。
 少し引用してみる:
 「西欧キリスト教国を「魔女狩り」が荒れ狂ったのは,ルネサンスの花開く15−17世紀のことであった。密告,拷問,強いられた自白,まことしやかな証拠,残虐な処刑,しかもこれを煽り立てたのが法皇・国王・貴族および大学者・文化人であった。狂信と政治が結びついたときに現出する世にも恐ろしい光景をここに見る。」
  P.67 「カトリック神学は,あらゆるものを悪魔の力で説明したアウグスティヌス(354−430年)によってその土台を築かれたものだが,この偉大な教父の「神の国」や「キリスト教教理」は,15世紀以来の魔女論者たちが,魔女と悪魔との結託を論証する有力な典拠として,やたらに援用しているところのものである。
 たとえば,悪魔との結託を証明する事例として魔女論者が第一に取りあげ,魔女裁判官が異常な熱心さで追求した魔女と悪魔との性関係についても,霊的存在と人間との性交と妊娠についてのアウグスティヌスの論証が有力な支えであった。〜省略〜 神学の最高峰トマス・アクィナス(13世紀)にいたれば,この論証は磨きをかけられて完成される。--悪魔との性交によって女は妊娠することができる。しかしそれは悪魔自信の精液によってではない。悪魔は,女色魔となって男から受けとった精液を,男色魔となって女に与えることができるからである。(神学大全)」


 

この様な独善的な論調がカトリック神学者の研究内容の一環であったわけだが,古代からの宗教的発想法から離れるどころか,聖霊とか悪魔の実在をいつまでも信じて魔女の存在が定義されてしまったのである。それがヨーロッパの風土であった。


 魔女集会で悪魔に洗礼をうけた魔女が淫乱な宴会をするというドラマチックな発想には恐れ入るがその場面が絵画に描かれていて博物館などで見ることができる。インドや日本では春画としてひとつの美術カテゴリーが生まれたが,それは公に見るものではないのに対し,キリスト教絵画では罪深い異端が極刑を受ける正当性を民衆に見せつけるものであった。まともな人々にとり正しい行為だったのである。


 魔女裁判官は被告に尋問して自白を誘導した。定型化した尋問例をあげてみよう。


 P.102の抜粋:
「おまえは魔女になってから何年になるか,
魔女になった理由は何か,
男色魔の名前は何だったか,
悪魔にどんな誓約したか,
魔女集会にはどんな悪魔と人間が出席したか,
集会では何を喰べたか,
共犯者は誰か,
箒の柄に塗った軟膏は何でできていたか」


 何も知らない被告は自白を誘導されても答えをしらない。答えるまで恐ろしい拷問がある。この拷問の場面も絵画になって残されているから見学してしまうことがある。逮捕,尋問,拷問を含めて魔女裁判にかかわった経費は魔女を殺したあと残された家族に請求した。その上に目的の重大なひとつだった魔女の遺産を聖職者や担当した者が分配した。純粋な反キリスト教に対する異端裁判ではすでに富をもった被告が減ってしまい,利益を受ける側である教会と当事者は次なる儲け手段として魔女を極悪な異端として魔女裁判制度を作ったという風に考えても構わない。


 魔女という単語であるが,これは英語から訳されたものであろうか。本場の魔女は魔女狩り時代の後半はたしかに女性が多かったが男性も魔女として犠牲になったから適当な訳とは思えない。魔人とでもする方が私たちには分かりやすいのだが慣例として日本語では「魔女」を使っている。


 拷問は人の想像を絶する悲惨なやり方であった。拷問道具も展示しているところがあり楽しい観光ではないが一度は見学しておかないとキリスト教の過去を知ることにならない。
 誘導尋問と拷問との繰り返しの苦しみに耐えられず架空の「自白」をした者は絞め殺してから死体を焼いた。自白しなければ焼き殺した。30万から300万人の犠牲だったらしい。



 「公定処刑料金表」の例があるがここでは料金は省き項目だけ。P.128: 
「四頭の馬で四つ裂にする
肢体を四半分に切り分ける
以上に必要なロープ代
四半分のそれぞれを四カ所に吊すに必要なロープ,釘,鎖代
斬首,しかる後焚刑
それに必要なロープ代,刑架制作費ならびに点火料
略 
車輪に縛り付けて生体粉砕
それに要するロープおよび鎖代
生体を車輪に繋縛する
斬首
  それに必要なロープ,目かくし布代
以降略 」



*ヤン・フス
 P.137 「1415年ドイツのコンスタンツで異端者として処刑された宗教改革ヤン・フスの最後をみた者の言葉。
 「フスは一対の薪束の上に立たされ,太い柱に,足首のまわり,くるぶしの上下,もも,腰,腋の下を綱でかたく縛りつけられ,首は鎖で固定された。そのとき,フスが顔を東に向けているのがわかった。それは異端者の場合,妥当ではなかったので,西向きに直された。藁をまじえた薪束が彼のまわりに,あごのところまで積み上げられた。この処刑の監督者,領主ルードヴィヒ伯は,コンスタンツの執行官とともにフスのソバに歩みより,最後の改心を求めた。フスがそれを拒絶すると,二人は身をひき,手を鳴らした。処刑吏に火をつけろという合図であった。薪束が燃えつきてしまうと,半焼けの死体を完全に焼いてしまうために,胸の悪くなるような仕事が行われた。--死体を細かにばらし,骨を砕き,その断片や内蔵を,新たに追加した丸太の火の中に投げこむのであった。フスのような殉教者の遺物は,それがかたみとして保存されるおそれのある場合には,火が消え去ったあとで灰をかき集め,それを流れの中に投げこむという,特別の注意が払われるのであった。」H.C.リー「中世」」



今日苦労して訪問したヴェルケー・ロスィニ近くも多くの犠牲がでた魔女狩りの地であった。それにしても観光資料に魔女狩り関連の展示はシュムペルク博物館に移されたことは明瞭に書いておくべきだろう。知り合いの観光業者にはお節介ではあろうが注意を促しておきたい。
http://4travel.jp/traveler/fk/album/10084687/