6月19日その1

 昨晩おそくブダペスト一泊の旅行を終えて疲れているようだったが,予定通りご婦人方をローカルのジーゼル機関車でポーランド国境に御案内すべく出発した。オロモウツの北には市民に親しまれているイエセニーキなどの山脈が連なっている。


 この山脈には金や銀の採掘でながくチェコ繁栄の歴史に記述されるかっては王直轄の町がいくつかあって現在は博物館などで往時の繁栄ぶりを偲ぶことができる。金銀鉱が枯渇すると水療法を開発してスパーを発展させた町があって西欧からのお客が絶えない。市民のあいだでは,冬はスキー,季候の良いときは軽装で散策するのに格好の山脈で週末は老若男女が遊ぶ。


*クルノフ 
そのイエセニーキ山脈にクルノフという町がある。国土をぐるりと外国に取りまかれているチェコでは国境の町というのはたくさんあるがその国境の町の一つ。国境の町というのはたいがい,戦争がくり返し勃発したときいつも戦場となったから,すごく古い記念物とか教会がオリジナルのまま残っているケースはすくない。クルノフ市もそうである。現在クルノフといえば,パイプオルガンの町だと人びとは連想する。2005年の愛知万博チェコ館で展示演奏された水パイプオルガンもクルノフで製造された装置だった。


 ローカルのジーゼル車でクルノフ駅に着くと知りあいのパヴェル君が出迎えてくれた。12名の我々を乗用車で駅と三度も往復して,彼の家族で経営している木製カード製作の工場に連れていってくれた。チェコ中の文化遺産を木製カードに印刷しているからここでゆっくりとお城,教会,それと観光スポットを芸術的な木製絵葉書で心ゆくまで見てもらおうと考えていた。


 今回の団体がいままで訪れた今ではもう懐かしい傾斜を囲む市街地のあるシュテルムベルクや,鍛冶の作品がたくさん見学できたヘルフシュティーン城,オロモウツの聖三位一体コラム,是非とも今回の旅行中に訪ねてみたいプラハなどの代表的観光地の絵がプリントしてあるカードを求めるのに時間がかかってしまった。小さくて軽いというお土産にちょうど都合のよいお土産になる。


 この木製郵便葉書は裏面にチェコの有名な文化遺産と記念碑を印刷することで特許を得て家族で起業する糧となった。世界ではどこでも旅人が立ち寄るお土産屋さんに見受けられる木製品ではあるが,チェコという国は新しくいぜんはすべての企業が国営だったからことさらチェコ製品を旅行者に売り込もうとか外国に宣伝しようというアイディアは実のところまったくなかった。それでも充分にソ連邦内では先進工業国として栄えていたのだった。ほとんど貨幣経済でなかった頃のチェコ製造の機械類はとてつもなく安く販売できたから全世界の途上国に輸出されていたのだった。アジア,アフリカそれに中南米で使われた機械装置は多くがチェコ製であった。


 いま現在のチェコ人にとって勇気あるものは外国に出かけて視野を広げ彼らにとって新しい商業製品を持ち込んだり,コピーして製造販売する機会はゴロゴロ存在している。それほど真の自由経済体勢に突入したのは最近のことである。木片に観光地の風景を印刷して郵便葉書としたのは,ひとつの例である。中世の製造法を研究してグラスなどを中世風につくり販売しだしたのも最近のことである。ハンガリーポーランドよりもまだまだ土産物の種類が少ないチェコでは,いくらでも新しい製品はつくることが出来そうである。


 実行しようかどうか迷っていたが,せっかくの国境の町にいる。ラッキーなことに快晴でもあるし徒歩でポーランドに入ってみたいというわたしが最初に提案したちょっとした冒険をぜひとも敢行したいという意見が大勢だった。パヴェル君に相談すると,国境そばにレストランがあるという。自動車で往復してわたしたち全員をレストランまで運んであげると申し出てくれた。これには感謝した。なぜかというと国境そばまで行き着く手段が車以外にはなかったのと,タクシー利用といっても3台に分かれるのは安全を考えるとわたしには不安だったからである。タクシーはほとんどの国において雲助だと考えるのが肝要なのを知っているわたしには,見知らぬ土地でのタクシーは一台でみなそろって移動するのが旅の原則なのだ。


パヴェル君と彼の恋人は私たちの望みに沿ってレストランというところまで送りとどけてくれたのだった。


空腹を抱えてみなが期待したレストランというのはただの雑貨屋で私たちは呆気にとられたのだが,飲み物とたった一個あったサンドイッチを仕入れてさっそく国境の風情が漂う小道を出発した。


*国境
出国検査は時間がかかったが,まわりの山脈の広々とした光景はやはり絶景だった。北はポーランドで南はチェコであるのをつくづくと考えてみたのだった。山間で二国の境をまたいでわたる経験はドイツからベルギーの国境越えについで二度目のことだった。この時は一人で真冬,吹雪の国境越えだったが,今日は初夏の炎天下,山のそよ風が爽やかだ。

このような辺鄙な国境を歩いて渡ろうとする外国人はよほど珍しいに違いない。検査官は硬い表情であっても友好的だった。写真撮影はもちろん許してくれないが,建物のまわりをうろつくのは気にもとめていなかった。数メートル北のポーランド入国審査官もやってきて挨拶したりした。



わいわいやっている間にポーランドにやってきたという感じで北に向かって散歩を続けた。後ろを振り向くと遠く彼方にチェコ側の山脈がくっきりと浮かび,ひとつの山頂には見晴し塔とその右側に教会がこじんまりと立っている。ツヴィリーンの丘である。前景は国境の殺風景な建物とチェコ側のあのレストランだった。


北方向をながめるとポーランドの緑の平原が展開している。遙か彼方にも山が見えず,どこまでも大平原だった。石造りのバス停留所があってその辺りで10分ほど遊んだ。バスは最も近い町まで行くはずだが日に数本ていどの運行らしいので,それ以上進むのはあきらめてチェコに戻ることにした。それでも,このような国境越えの小さな冒険にわたしたちは大満足した。



*ツヴィリーン
このうえなく親切なパヴェル君たちが時間を見計らってレストラン前に出迎えてくれて,ついさっきポーランドからながめた美しいツヴィリーン山頂に連れていってくれた。
この山には巡礼教会がひっそりと佇んでいる。教会ファサードの上には絵画が描かれているが恐ろしいことに聖母マリアの体には7本の長い剣が突き刺さっていた。聖母マリアの人生には7回も試練が襲ったそうなのだ。じつに可哀想な話である。巡礼教会らしく本堂をかこむ広い庭にいわゆる十字架の道があり絵画などが飾られる建物が点々と並んでいる。ただし,イエスが十字架にかかる一連の絵画は別のところに保管されているとのことだった。

国境の山だから見上げるように高い石造りのタワーがあった。今日は残念なことに中に入れないが,この塔の最上階から眺望すれば,ポーランドの平原が手にとるように見渡せるわけだ。北海道や米国オハイオ州の広大な平原と見比べてみたかったが、今日はできなくて心残りとなった。

時刻に間にあったおかげでオロモウツへの戻りもジーゼル機関車だった。丘あり谷あり,ちょっとした森林をくぐり,沿線に小川が流れたりする風景。奥深い山地の原風景をながめていると気持ちが豊になるようだ。時折近くや遠くに山間の町や,丘の斜面に立っている教会や民家があってイエセニーキ山脈の車窓見学は楽しかった。
http://4travel.jp/traveler/fk/album/10084721/

*ソーメン
炎天下での国境越えですっかり体がほてっている私たちは,今晩は日本食が食べたくなった。それでホテルにあるリトヴェル・レストランの厨房を借りて15名分のソーメンをゆでた。15名分のソーメンをゆがくのは結構な仕事だが,レストランの厨房なので広々としていて作業ははかどった。野菜と卵はレストランのものを拝借した。
シェフや給仕さん,それにホテルの若い従業員みなにお裾分けをしたところ大喜びだ。日本のソーメンも美味いという。わたしはチェコでは100食分ぐらいのカレーライスを作って日本を代表する食事の一品としてチェコの友達に振る舞ってきた。いつも大好評だ。チェコ人は肉では豚肉が大好物だし,チェコ人のキノコ好きはだれもが知っている。だから,豚肉をふんだんに使う肉カレーライスもキノコを加える野菜カレーライスも,よほど下手な出来栄えにならない限りたいへん美味しいそうである。脂っこくないのが好いという人もいる。本格的な野菜カレーならば,少し太めのチェコ女性に大受けするだろう。


*モラヴィアの田舎の食事情
本当のことを言ってしまうが,チェコの料理はいいレストランでない限り,上品な料理とか美味しいものは多くはないと言える。一般家庭の料理といったら,贅沢なものはめったに出されない,というと現地の人からは怒られそうだが,あるていど彼らも認めないといけないだろう。もちろん市場経済の時代に入ってからレストランも食堂も飲屋もおおいに増え味の競争も少しは始まっている。だが彼らの舌の味覚はまだ洗練されていない。カレーライスにつかう米の味は,タイ米だろうが日本から持参したものだろうが,ぜんぜん味の違いというのが分からないようだ。

じつに多彩な野菜類も麺類も米も,果物も外国資本のスーパーマケットならどこでも,いまではふんだんに陳列されている。上質なものだってあるから閉塞感が蔓延していた社会主義時代とは雲泥の差だ。にもかかわらず悲しいことには,料理の仕方というかそれら目新しい野菜の料理の方法をまだほとんどの市民は知らない。例えば野菜といえば,むかしから,トマト,キュウリそれに赤や青色のパプリカ程度であり,生で食べるときに栄養があると信じ切っている。菜っ葉類は市場で売っているのに、家庭料理の素材として使うことは少ない。

もちろん,むかしから男女とも働く社会であったのも影響して,家庭料理はかんたんに作るという伝統のせいでもある。朝6時には働きにでていた時代が長かったから朝食は少しだけ腹に放り込むといった習慣だった。夕方早く仕事から帰宅するとのんびりと遊んで暮らす習慣もあって,家庭料理は発展しなかった。この点はアジアの中国人と似ているが中国人の大勢住むところには必ず大型の大衆食堂が中国人の胃袋を満足させるように乱立した。

自由化後オロモウツでさいしょに新規開店したのは中華料理屋が数店だった。ところが,みなすぐに呆気なく倒産してしまった。まだ味が市民に受け入れられなかったのと,とても奇異に映ったせいでもあったし,料金が高く設定されていたからだった。それが今ではオロモウツだけでも5店はある中華食堂とレストランは大いに繁盛している。こんな味で売っていて構わないのかと心配していたが,それでも徐々に中華料理の味はよくなってきている。わたしのごく親しい友達で,中華そばが一番の好物だという人がいる。カレーライスが大好きだという人がいる。日本人が作る焼きそばやカレーライスが販売されればきっと受けるだろう。チェコ人の舌には,しょうゆ味はあうのである。

英国の料理が洗練されたのは(今でもグルメの方にとっては英国料理は不評だが),EU連合の前にあった欧州コミュニティーECに加入してからのことだ。EC諸国から食の素材が多く輸入されるようになってからのことだった。
チェコでは,それと多分どこの中欧諸国にあっても,裕福層が生じ始めているから食事革命がおこるのはもうすぐで目と鼻の先だろうと予測している。コーヒーはすでにたいへん美味しいが,紅茶はいまだに美味しいものは少ない。

初夏とはいえ好天気がつづいて暑いから,冷やしたソーメンの味は格別だった。私たちはさっぱりした日本食を腹にかき込み幸福感を味わった。ホップの風味が持続するチェコビールとソーメンは味の相性が,真夏のせいか,すこぶるよかった。


写真はブダペストの温泉。温泉と言ってもプールになっている。