今年残したメモ:「ハナーの伝統美術」を読んで
「ペルー産赤ワイン」
掃除していたら珍しいワインがでてきた。
1994年家族旅行したときに妻が持ち帰った一瓶で,ペルーの古い都市イツァ産だ。
飲んでしまおうか,それとも更に寝かせるか少し論議して,またどこかに隠してしばらく忘却しようと言う事になった。
その他にも数本珍しい飲物が発見された。
年末の掃除というのは発見が多々あるものだ。
「チェコ東部オロモウツの伝統」
今年の冬には,「ハナーの伝統美術」という本を読んで感想メモを残していた。
備忘録的にコピーしておく。
その本はHPに記述している:
http://www.geocities.jp/fujimotoksa/souvenir お土産/民族衣装の本(読物)
チェコとオロモウツ県ハナー地域の歴史的考察:
チェコでは30年戦争でチェコ人の貴族はほとんど消滅して、その後の支配者だったドイツ人が貴族となっていた。ドイツ人とは現在のドイツとオーストリアのドイツ人のことである。
その様な背景もあってチェコ人は伝統的に貴族を嫌っていた。
チェコ共和国東部オロモウツ県のハナー地域はほかの地方とは異なり土地がとても肥えていて農業で栄えてきた。
まわりが山脈と高地で冬の寒さは厳しいが平地のハナー地域はそれほど雪が積もることも少ない。
恵まれた自然環境があり、ハナーの人々はほかの地方の人々と比べると生活が豊で安定し独特の文化が育まれた。
チェコを支配したオーストリア帝国の全盛期は派手なバロックの時代だった。
支配され続けたチェコ民族はドイツ人を毛嫌いしてきたが、ハナーの人々はバロックをすぐに受け入れて民家もはやくからバロック風な建物に改築した。バロックは豊かさのシンボルだったからでもある。
むかしは自由に村を移動したりできなかったし事実交通手段も限られた人々しか持ち合わせていなかったから、村の生活は閉鎖的になる。しかし,幸いなことに豊かであったハナー地区は自給自足ができて農民も満足な生活をすることが可能だった。お金を払って自由の身分を得た農民も少なからずいた。
その様な環境のお陰で、派手な衣裳の伝統が生まれたのだった。豊穣を感謝する舞踏も伝統として根付いたのだった。
「ハナーの伝統美術」は写真とイラストをふんだんに盛り込んだ分厚い一冊。友達の助けを借りて少しだけ日本語化した(2005年春)。
P.20 18世紀末のハナー地域の地図
P.23 水差の絵、ハナーの男性、1714年、付録 T XXIV 参照
P.24 ある村の地図、1746年
P.25 ハナーの女性、1750年前後
P.33 フランス人画家の絵、二人のハナー男性、1805年前後
P.35 ハナーの結婚、19世紀
P.41 左の絵:ハナーの夫婦
右の絵:ハナーの男女
P.47 男性のベスト
P.48 結婚式の後、リトグラフ
P.73 祭の衣装
P.74 袖口の模様
P.75 飾り:58番は心(または心臓)の模様 70番は小さなリンゴの模様
P.76 71番は葉っぱのバラ 73番はひまわり 75番は太陽の模様
P.77 99番は椰子の葉
P.113 帽子の作り方、4方法
P.114 左は「ハナーの冠」 右は「ハナーのバラ」
P.115 二つの村の帽子
P.116 髪型、3種類
P.141 袖口の飾り、村により異なる模様
323番模様のモチーフはリンゴ
P.142 324番模様のモチーフは心(または心臓)
P.144 上:ローズメリー 中:樫の葉 下:リンゴの葉
P.167 女性のベスト
P.169 少し短いベスト
P.171 ベストの作り方
P.200 二人のハナー (ホスティーン市とプシェロフ市のあいだにある村)
P.201 お爺さんと孫 (プシェロフ市の近くの村)
P.202 日曜日の朝 村で遊ぶ子供たち (クイエティーン市近くの村)
P.203 写真446には、ジュドロと呼ばれるアーチ型の門が見える
(ジュドロは豊かなハナー農家の入口に建設された特別な門)
P.204 花嫁
P.205 慰霊碑 (神様の苦しみ)
(戦争で犠牲になった人のため建てられた。チェコにはいたるところに建っている)
P.206 写真:男性が「ハナーの権利」をかざしている。
「ハナーの権利」を持つ人がお祭りをとり仕切った。
P.207 花嫁と花婿
P.210 お祭り
P.211 村の広場
P.212 民族衣装 (オロモウツの近く)
P.213 民族衣装 (プレスチェイヨフの近く)
P.214 下:夜の上着を着たハナーの女性
P.215 糸をつむぐ女性
P.216 ハナーの女性
P.241 コステルツェ・ハナーの衣装
P.242 四人兄弟
P.243 村の衣装
P.244 上: ハナーのペア
下: えり付きのマント
P.275 ジュドゥル付の農家
ジュドゥルについて:
お金持になった農家は家屋の前に特別な入口を建築した。
アーチ型門をつけてその建物の上部の内部を納屋として使った。
歴史的考察:
6世紀にスラブ人がハナー地区に入植して数世紀をかけて森の方まで開拓した。
スラブ人の人口も増えた。
11世紀には西欧と同じく農奴制度が導入されてしまい農民は自由を奪われてし まった。
それでも15世紀のフス戦争まえまではかなり豊かな地方であった。
フス戦争では多くの村が焼かれてほかの地方と同じく経済基盤は弱体化した。
少しずつ回復して豊かさを取戻したころ30年戦争が起り,オーストリア帝国の 政策でチェコ人貴族は滅びてしまった。
18世紀(オーストリア帝国のマリア・テリジアと次のヨゼフ二世の時代)には
景気が回復して,その後ハナーの農業は再び繁栄した。ハナー地域の人口は安定した。
1848年に農奴制度の廃止があり,ハナーの村は更に豊かになり,自給自足の安定した生活が続く。村は農家で囲み村にはいるには門をくぐる必要があった。
その様に村は作られた。
ジュドゥルの造り:
木造建築の壁にドロを塗り,その上に石灰を塗って固めた。お祭の前に石灰を
塗直して,土地から1メートルの高さまで赤色,ブルー,紺色で装飾したものだ った。
現在では,門は取崩され(近代経済では邪魔なものになって崩された)ジュドゥルも少なくなった。スカンゼン(農民館)という形でハナーの生活を展示するところも出てきた。
P.279 ジュドゥルのスケッチ
P.305 オーブン,台所
むかし寒い夜は,子供はオーブンの上で寝る習わしがあった。だれもが台所で
寝た。
P.306 台所の床は牛の血で色を塗った
P.308 ドアのカギ,木製
P.309 ベッドと飾り
村の生活は都会とはかけはなれたものであった。村はどこもほとんど農業ばかり であった。
だから村で育った美術も自然をモチーフにした。ハナーでは花の模様が多く 建物もベッドも木造が多かった。家の壁かざりも花の絵がほとんどだ。
都会では,オーストリア帝国と教会と貴族(30年戦争後はドイツ人),
工場主(おもにドイツ人かユダヤ人)それと商人(ユダヤ人)がレンガ造りの大建築を残し,装飾は鍛冶工芸等であった。
P.310 大切なものを納める箱
中心にあるのはカギ
P.341 「聖フローリアン」
消防の聖人で,左手に持っているバケツで水をまいている像
P.342 イースターの卵
ハナーでは絵具のほかに わらも使ってデコレーションした。
P.348 左上:屋根の入口ドア
屋根のなかはわらや草を保管した。
中央には空気穴がある。
P.349 上: 油絵のフレーム
下: ルネサンス調のドア
(オロモウツ地方ヴェルケー・ビストゥジツェ市,家屋番号7)
P.351 ドアの飾り,彫刻
P.354 下: バターを固める入物
P.355 お菓子に模様をつける型
P.356 馬につける装飾模様
P.357 皮の入物,農作業に出かけるとき 飲物・食物をいれて運んだ。
P.358 左から,わらのかご,アシのかご,右の二つは革製のかご
P.420 「ハナーのうた」
P.421 「ハナーの収穫」
P.423 「コペチェックの丘のしたで」
参考:
ハナーの可愛い花
http://4travel.jp/traveler/fkcz/album/10025189/