6月19日その2

 今日は国境を二度もまたいで疲れた。
*領有問題
ベッドに潜り込むまえに国境に絡むシレジア領有問題について考えた。かのオーストリア帝国マリア・テレジア女帝が君臨した前後もながくチェコハプスブルク家に支配されていたが,チェコ領土であったシレジア地方は彼女の時代に現ドイツのプロシャに奪われてしまった。シレジアは鉱業と工業が盛んで農業でも豊かな地方だったのがわざわいして列強が奪い合う地方だったが第一次大戦終結した1918年に独立したポーランドは,ドイツ系住民とポーランド系住民が混在していたシレジアの領有を主張した。 

「考古学の散歩道」(岩波新書312,田中みがく・佐原真共著,1997年)の田中氏の研究を参考にしたい。
P.183 「シレジアはいったいだれのものか。そこにはいつからドイツ人が住んでいたのか。ポーランド人はどうか。ここで考古学研究者が登場する。文字で書かれた記録以前,この地にだれが住んだのか。ゲルマン人か,スラヴ人か。」

ここでポーランドとドイツの考古学者たちが自国固有の領土だと考古学の見地から主張し論戦が続く。

P.185 「ほとんどの考古学研究者は,民族大移動のあった五世紀頃まで,いまスラヴ人が住む問題の地域にいたのがゲルマン人であったことは認めていた。では,ゲルマン人以前そこにいたのはどの民族か。問題はそれだ。ここでとりあげられたのがウラジッツ文化である。ウラジッツ文化は,青銅器時代中期から鉄器時代初期,前十三世紀頃から前四世紀ごろまで,現在のポーランドからチェコスロバキア北部に広がっていた文化である。」

ここでまた両国の主張が展開されたのだった。
そして,第二次大戦とその後の時代を経て1990年の東西ドイツの再統一になってようやく国境線論争に結論がでた。第二次世界大戦終結まで約700年に渡り多くのドイツ人が住んでいたシレジアであったが,ドイツの二度の敗戦と,ドイツの東西分裂とソ連邦の時代,そしてロシアの思惑など複雑に交錯してポーランド領土は論争の地だった。

*チェコの歴史は難しい
この領土問題について,田中氏はシレジアがチェコ領であった時代について触れていない。チェコに滞在して観光をたのしんでいるといえどもチェコ歴史を少しぐらいは思うわけだが,いままでチェコの歴史書を読んでもさっぱり分からないという部分が多い。理由はたくさんありそうだが,チェコも700年間という目が眩みそうなほどながい年月ドイツ人に支配され続けてきた。30年戦争という宗教戦争の結末ではチェコ人貴族はほとんど殺されるか帝国外に追い出されてチェコにいなくなってしまった。そのことは,その後の政治・経済・文化の決定と発展はほとんどドイツ人が担ってきたといって構わないだろう,と私には思われる。社会主義時代の歴史では,まるでロシアの傀儡体勢になっていたから,とうじの歴史書ではソ連共産主義に差し障りのない様な書き方で歴史を通じてただ一筋にドイツ人を憎むような書き方であった。第一次大戦以前つまりハプスブルグ帝国に支配されていた時代の歴史書プラハで書かれ編纂されたのだろうが,多くドイツ系歴史家によりなされたのではないか? 読んで理解が難しいチェコ史の理由は根が深そうである。


歴史認識の問題もあるがそれよりもまえに当時にあっては社会体制と記述編纂する人たちの民族背景により都合よく纏め上げられたのではなかろうか、という疑問がわたしにはいつもある。
だから自由化後の現在,スラヴ民族であるチェコ人の歴史家が,事実を分かりやすく書き直すのを期待している。今までのチェコ歴史では,例えば,「チェコ」をいつまでも「ボヘミア」として扱ってきた。現在のチェコ全体を治めた歴代の王でもボヘミア王として書き続けられている。それはチェコ人にとっても外国人にとってもチェコ領土の理解を混乱させるもとになっている,と私には思える。だから翻訳が頼りの日本語のチェコ歴史はほとんど纏まっていないのも仕方ないと思える。


 自分がチェコ歴史を理解しようとするときにいつも突き当たる混乱を説明したが,チェコを含む中欧の歴史解釈は今後きっと練り直しを迫られるように思われる。歴史家にとり研究課題はいくらでもあり,たのしく読み通せる歴史小説等の方法によってチェコ歴史を新しい手法で展開して欲しいものである。例を挙げれば、いまだスラヴ人貴族が存在した30年戦争収束いぜんのモラヴィアの名門貴族ジェロチーン家の栄枯盛衰を書けばチェコ史の核心に触れることになるだろうとわたしは考えている。

写真は戦前にチェコ領土を守るために建設されたトーチカ。たくさん建造されてドイツ軍が攻め入るときに備えたが,ミュンヘン会議ではチェコの会議参加もなしに領土割譲が決まった。会議の結果にヒットラーは満足だとした。結局一度もチェコ領土を防衛するために使われなかった。チェコにはトーチカが残されており博物館になっている大型もある。

このトーチカは,日本でいうと,北千島のシュムシュ島に残るそれと似ている。
戦争という人類の愚かな行動が私たちに人の哀れを誘う遺構として。

http://4travel.jp/traveler/fk/album/10034454/