6月24日

ある地元の旅行代理店オーナーが一日わたしたちを案内するという。親切な申出なのでわたしたちはWさんの乗用車に乗り込んだ。

*オロモウツ・チーズ
オロモウツの名産をひとつあげて欲しいと問われれば、多くの地元の方はオロモウツチーズとよばれる変わったチーズを思い浮かべ、ちょっと嬉しそうな笑顔をするだろう。においが強烈だが食べなれるととても美味しくなるというチーズで、オロモウツケー・トゥヴァルシュキという。「初めての人にはとても無理だろうな…食べにくいだろうな…匂いがつよいのよ… でも試してみたら」とオロモウツ人は言う。
オロモウツチーズの村ロシュティツェには、オロモウツケー・トゥヴァルシュキ博物館がありその1876年以降の歴史とチーズ生産の道具類が一般公開されている。
2,000トンの年間生産というからかなり大量で、オロモウツのレストランならばどこでもメニューの一品に加えられている。たいがい油で揚げて提供されるから匂いはかれらが思うほど強烈ではない。生のトゥヴァルシュキだと外国人にとってははじめ匂いが鼻について後ずさりするだろうが、料理したそれを恐る恐る食べてみて、数度口にすればいがいと美味しい、数日後に口に入れると味が分かってくる、という代物だ。日本の納豆と思えばいい。風土に合う伝統の味わいが溶け込むオロモウツチーズの天ぷらである。たいがい、パフリカ、キュウリ、ジャガイモが添えられて一食となる。

オロモウツチーズの村は広場でお祭だった。今日は夏の土曜日にふさわしい賑やかな音楽が流れ若い男女が集まっている。

*プラハ観光
そのとき私の携帯電話がなった。プラハのガイドを伴っているわが二人のうちの派手な衣装をまとっている方からだ… プラハの天文時計の搭の中で財布から現金とクレジット・カードが抜取られた、というのだ。

たまげてしまった。ちゃんとプラハに住む女性ガイドが付き添っているし、最近日帰りでプラハ観光をして少しでも馴染みのある町にいるのではないか、なんどもなんどもプラハは大都市で危ないから気をつけるように注意を促していたのに…
警察に届けること、盗難事件として被害を受けたことを正式な書式に書いてもらうこと、カードがだれかに使われないように、すぐに銀行に連絡するように、などと被害にあった女性にアドヴァイスをするだけしか今はなにもできない。ガイドを引き受けてくれたチェコ娘にも少し助言を与えておいた。

観光旅行代理店のオーナーがわたしたちに見て欲しいのはボウゾフ城なので、少しいそいだ。幹線道路をはずれて丘を越え森林のなかに入ると広々と開拓されている目的地に入った。観光客が多い。

*ボウゾフ城
チェコでも指折りのお城で、地元の人々にも海外からの観光客にも人気のあるボウゾフ城はおとぎ話にでてくるようなロマンチックな造りとして名高い。チェコのお城や宮殿、それとカタコンブとよばれる大型の洞窟は映画の撮影にひんぱんにつかわれるが、チェコの子供にとっては絶対に行ってみたいところがこのボウゾフ城だといって構わない。
このお城の特徴は、実に頑丈な造りになっていることだろう。武士たちがたてこもり激しい戦闘に耐えて生活するために築城された建造物であれば、山懐の森林に覆われた小高い丘に建てられているのが普通だが、このお城はちょっとだけ小高い丘にそびえている。このお城は戦争に巻き込まれたことがあるのだろうか?

そとから正面をもう一度しげしげと眺めると、石造りの城壁は石のいろがそのままでごつい感じがするが、小粒の石畳の壁のように映っている。ゲートの造りも、左右に広がる建て方も左と右の均衡がまったくとれていない。左にキリスト教を伝道した聖人の石造があれば普通は彼の相棒の石像が右にあるのが自然なのに、相方はいない。お城の正面に半円アーチのベランダがある。右にはない。左の四角い窓と右のそれとはまったく不釣合いのところにはめ込まれている。左の屋根の陽窓もそうなっている。太陽時計が右側だけにうんと目立つ色で浮き彫りのように組み込んである。うしろに見える搭の窓々もランダムに配置されている。塔の上の三角屋根の窓もそうなのだ。

それらの変わった設計であるのに関わらず、美しいと表現できないのに,不思議に素敵なのである。それが、このお城の第一印象だった。つまり、装飾の要素ひとつひとつはロマンチックであるのに、装飾はたくさんあるのに,均衡というような大人の美意識には関係がないつくり… 
言い換える必要がありそうだ。かわいいロマネスク風な要素がいっぱいバロック風に散らばっているが、ゴシック時代のはでな雨ダクトが全体としては小粒においてあって、建物のパーツが日陰をつくり、とっても妖精的!! 紺碧の空を背景としたボウゾフ城正面は一幅の絵である。
城壁でぐるりと囲んだ中庭から見上げる場合には、不均衡の人工美に、騎士の風格が放つ荒々しさが加わって、楽しめる美しさというのを感じる。子どもに大人気な美しさなのである。

お城内部の観光ではガイドにより説明を受ける。だが、展示品の数々をここで説明するのは割愛しておこうと思う。

*ドイツ騎士団
このお城の起源はボウゾフ家が砦を築いた14世紀はじめに遡り、その後所有者は時代とともに変わり、最後には1696年ドイツ騎士団修道会がボウゾフ城と周辺一帯の広大な領土を購入してドイツ人支配に下った。チェコは国の運命というものか、宗教戦争の地として記憶されるが、チェコ人による宗教改革の30年戦争というのが決定的な歴史のその時であった。この戦いにけっきょくは敗れたのだが、主なる相手がカトリック教に敬虔なハプスブルク家であり、敗戦後チェコ貴族は殺されるか帝国外に追放されてしまった。つまり、彼らの領土財産はハプスブルク家をふくむドイツ人のものになった。戦いに功績のあったものハプスブルク家に都合のよい者に領土財産は分けられたのだった。ここではボウゾフ城だが、1696年にドイツ騎士団修道会のお城となった。

ところが彼らはボウゾフ城には興味がなくて、権力者が誰も住まないから、風雪にいためられたお城は19世紀後半にはボロボロになっていた。そのボロボロの城が格好よかったらしくて、鉄道網による大旅行ブームの時代、産業革命で豊かになった人々の観光スポットとなった。まだ領主であるドイツ騎士団の居城は近くのブルンタル城かウイーンの宮殿であった。

ところが、19世紀終わりに近い1894年になって、新しい騎士団の長官がやってきてからこの城は大改築されて騎士団の住む城館となった。この時すでに戦争目的の意味はなく、ロマンチックな彼の好みにより、豊かな財源を投入、15年間の歳月をかけて現在の形に仕上げたのである。ドイツ人建築家により中世十字軍の居城イメージをボウゾフ城の姿として蘇らせたものなのである。その長官はハプスブルク家のオイゲン大公だった。
 
*栄枯盛衰
尾ひれを付けておこう。1939年に騎士団のこの領土はナチドイツに没収され、第二次大戦後チェコスロヴァキアはドイツ人を追放し財産を没収した。さきに書いた世界文化遺産のレドニツェもドイツ系リヒテンシュタイン家のものであったからリヒテンシュタイン家も追放されたし、またボウゾフ城の所有者だったドイツ騎士団修道会のメンバーも追放された。戦前チェコの価値ある財産はどれもドイツ系のものであった。追放命令で300万人以上のドイツ人はチェコスロヴァキアから命からがら逃れることができたが、30万人にも及ぶドイツ人は殺されたり自殺したり、戦後の大混乱が起こった。中欧諸国ではどこでもおなじような悲しみが起きた。日本が満州と千島列島で体験したのとおなじ戦後の悲劇がここでもあったことを記憶しておきたい。

きれいなお城を見学して満足したわたしたちはホテルに向かった。
*歴史
保守管理が行き届いたきれいな遺産もあれば一方でいつかは取り払われるような遺構もある、そんなことを道中考えてみた…すごく辺鄙なところにある、小さすぎる館やお城は値打ちが全くないから、むかし権力と富をもってなんでもできたドイツ人も興味がなかったし社会主義時代にもまったく注目されなかったから、崩れかかっている。今にも完全な瓦礫の山になっても不思議でない朽ち果て弱っている石の固まり、そのようなボロボロな古城を、だれも関心のない建物を、わたしは二箇所で遠くから見学したことがある。崩壊の危険があるから近づけないわけであるが、それほど古いものがチェコにはいまだに残っているのである。
http://4travel.jp/traveler/fk/album/10085068/