6月25日

いそがしい海外出張のあいだを割いてパリからわざわざ観光資源を調べるためにオロモウツに来られた方をぜひともわが友ヨゼフに紹介しておきたいと考えて、彼の事務所に出向いた。みな忙しいので、10分ほど雑談をして分かれる。フジトラベルの岸さんは電車でプラハに向かった。
 わたしは自分のPCの置いてある部屋で一時間ばかり過ごしてから、妻とプラハに向かったが、運良くイタリア製のペンドリーノという今年のビッグニュースになっている高速電車の乗り心地を試す機会となった。


*p1*ペンドリーノ
 チェコEU欧州連合)加盟にそなえてインフラ整備を急いできたが、鉄道に関してもそうでレールの取替えと、曲がりくねっていた場所ではなるべく直線にするための新たな路線の敷設、駅構内はバリアフリーに近づける工事やあらたな駅の建設、トンネルの工事など続けていた。そして、イタリア製のペンドリーノの運行が今年2006年1月から始まった。前評判の高かったこの数台のペンドリーノエンジンは、だが、ながねんのチェコ当局とイタリアのメーカーとの技術的打ち合わせにも関わらず、不幸なことに冬季はすべて不調だった。途中でとまって動かないという不都合が続いて発生して、鉄道は大混乱に陥ってしまった。わたしも日本人で最初にペンドリーノを体験すべく1月には切符を手に入れて乗り込む寸前でキャンセルされてしまったという苦々しい経験がある。
駅構内でまっているが、30分遅れがアナウンスされる、そのあとにさらに50分遅れ、その次には2時間遅れとスピーカーから連絡していた。駅員に尋ねるといつ動くか分からない、という返事しかもどってこない。こうなるとその電車は早めにあきらめるのがよい。だが、その電車が主要駅のあいだでとまって動かない場合は、その日一日中電車を待つことになるかもしれない。わたしはその日急ぎの用事があったから電車以外の交通手段を考える必要があった。


 ただし、この2006年の冬は欧州どこでもたいへんな厳寒で、その例外的に厳しい寒さがペンドリーノのエンジンに不調をきたす原因だった。チェコでは自動車も動かなくなったが、寒冷地ではほぼどのメーカーの車もみな支障をきたした。ジーゼルの凍結という問題が発生したのだった。わたしはトヨタ車でボヘミアモラヴィア山地を走っているときにそのトラブルに直面した。一面雪に覆われた高原でエンジン不調の警告を発生する設定温度に達して車の制御が利かなくなった。それは早朝だったから、たいへんな思いをしてサービスを受けるために車を修理工場に運んでもらっておいて運良くポーランドからやって来た車に便乗させてもらい目的地のプラハまで行き着いたのだった。


 春になってからペンドリーノは順調に走るようになった。約250キロのプラハオロモウツ間は以前の特急では3時間半程度は覚悟せねばならないが、ペンドリーノでは路線も直線が長いのと停車駅が少なくなり、2時間と少しになった。ひじょうに快適なスーパー特急である。もちろん日本の新幹線に比べるのは気の毒であろう。フランス自慢の新幹線でもそうなのだから。

 
 プラハについてホリショビツェ駅構内で食事をするつもりだったが、昼食時間を過ぎていたために、スープさえももうなかったから、今晩妻が宿泊するホテル近くのトルコ料理店を妻に紹介した。チェコではまだトルコ料理はめずらしいので珍しいシシカバブなどを妻は美味しそうに食べていた。

トルコ人たちがわたしたちに話しかけてきたので雑談をした。日本語を少し理解する気前のいい男性がいてタバコ一本とトルコ・コーヒーをおごってくれた。大阪女性と付き合っていたときに日本語を覚えたと言っていた。
彼らはTVの周りに集まり、米国がテロを撲滅するという報道に息を潜めて耳を傾けていたが、分かれるときにはひとつ忠告してくれた。プラハではドロボーに気をつけるようにと。


 
 今日プラハに来た目的は、さくじつ天文時計のある搭に登る途中で財布の中身を上手にすりとられた女性を励ますためだった。彼女と友達の二人は今日は通訳付きでプラハ南部へ足を伸ばしていたが、わたしたちがプラハ到着するころにはホテルに戻っているはずだった。だがどうしたことかバスで出かけていて、大渋滞にまきこまれ何時になったらプラハに着くのか分からないという連絡が携帯電話に入った。それで、時間つぶしでカレル橋にいってみた。


*p2*カレル橋のザビエル像
カレル橋の雑踏のなか,いならぶ聖人像のなかに、わが国にキリスト教を伝道した「海外布教の聖人」の像がある。イエズス会設立のメンバーの一人でもあったザビエルは日本をほめたたえた敬虔なる宣教師だった。宗教戦争を繰り返した欧州が殺伐とした魔女狩り旋風の中にある暗いくらい本家キリスト文明からやってきて、比較すればとてつもなく平和な日本で、親切で人のいい日本人とつきあって、人間というものが風土・環境によって影響されるものだと考えたかも知れない。またはまだそれほど多くの海外文明に触れていなくて,地球文明の分析はできなかったもかも知れない。ともあれ,日本についての彼の印象はすこぶるよかった。


「この国のかたち」二 司馬遼太郎 文春文庫 P.236 「聖サンフランシスコ・ザビエル全書簡」(アルベール神父・河野純徳訳・平凡社)から引用する。
 「-----この国の人びとは今までに発見された国民のなかで最高であり,日本人より優れている人びとは,異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく,一般に善良で,悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで,他の何ものよりも名誉を重んじます。大部分の人びとは貧しいのですが,武士も,そうでない人々も,貧しいことを不名誉とは思っていません。」


日本歴史の大事件のひとつは信長が宗教の政治への介入を叩きのめしたことであろう。私利私欲にかられた僧侶たちを徹底的に殺戮してしまった。それは日本にとってひじょうに幸運したというのは今では定説になっている。


男の肖像 塩野七生 文春文庫P.74から引用してみたい。
 「織田信長が日本人に与えた最大の贈物は,比叡山焼討ちや長島,越前の一向宗徒との対決や石山本願寺攻めに示されたような,狂信の徒の皆殺しである。」
(中略)
 「キリスト教徒だって,信長の存命中はおとなしかったから仲良くしてもらえたので,他の布教国で行っていたようなことを日本でもやりはじめたら,とたんに信長から「焼討ち」にされていたであろう。とくに,日本への主力は,イエズス会という,ヨーロッパでさえ追放せざるをえなかった国があったほどの,「悪名」高き戦闘集団であった。」


P.76 「この四百年の間政教分離の伝統を維持してきた国は,欧米諸国が現在にいたるまで,この問題で悩み苦しまされてきた実情を知れば,われわれのもつ幸運の大きさに,日本人がまず驚嘆するであろう。」


かっての日本のよき時代を垣間見た欧州人には、わが国を最大限の賞賛でもって言い
表した人々が多くいた。イエズス会のザビエルでさえ彼にとっては異端の日本人をほめたのだった。


*p3*スリにあった人
大渋滞のなかバスでご夫人3名がプラハに戻ってきた。疲れきっていたが、さっそく手提げかばんにいれた財布から現金とカードがいかに手際よくすられたのか驚きの声で説明した。
ビールを飲みに出かけたら、ひとつの門を眺めるのに都合のいいレストランがあるのでそこの道路わきの席にすわった。夕陽がつるべ落とし、夜の雰囲気になった。



 細かい説明を聞いた。彼女たちはその事件を報告に警察にいった。警察の建物で4時間待たされたそのあいだの印象は恐ろしく、泥棒にあった人々がたくさんいたし、話しかけてくる連中も泥棒にみえてしまったそうである。置き引きなんぞ日常茶飯事となっている大都市のプラハならではの経験を3女性は体験してしまった。遠くの地に観光で行って、貴重な時間のうち半日も失った二人は悔しく思った。


*p4*チェコの通訳
 通訳のことを少し書いておきたい。チェコでも日本語は希少言語であるから通訳も翻訳もとても高い。なぜそんなに高いのか、まだ生活物価の低いチェコには不相応でないかと日本語学生に質問したことがあった。返事は、ヨーロッパのどこでも高いですよ、という理屈がかえってきた。たしかに、希少なものやまだ一般的に出回っていないもの、贅沢な自動車や電化製品,電子製品等はお隣のオーストリアやドイツよりも高いぐらいだ。まだまだ起業家の生まれにくいという競争原理のはたらかない若い自由経済だから仕方のないことであろう。


 二人の日本女性に紹介したチェコ人は日本語を学んでいる学生で、妻が親しくしているプラハ在住の女性だった。
 オロモウツを出発してプラハ到着の時点から二人の観光者を案内して欲しいと頼んでいた。到着した二人にはプラットホームにポーターも待っていたそうだ。このポーターに支払いが生じた。駅をでると通訳はタクシーを呼んだ。駅から歩いて5分のところのホテルを予約したのに、一方通行でおおまわりしなくてはならないタクシーを利用した。ホテルではまたポーターを使い荷物を部屋に運ばせた。そのチップが約500円だった。言いなりにならざるを得ない二人だったが、その後もなんだかんだと出費がかさみ、その高さに驚いていた。物価のやすいチェコ東部で一週間ほどかなり豪華に旅行を続けた後にプラハと近郊を歩いてた印象は,プラハでは何でも値段が高くてお金が飛んでいった,だった。


 この通訳はけっして安い料金を二人に請求したのではなかったが、最初の夜,分かれるときには、ホテルに近くもないのに、自分の電車の都合いい場所でさよならと言って電車に飛び乗ったそうである。次の日には朝ホテルに電話して、どこそこで待っているから来てくれと言ったそうだから、僕もちょっと呆れた。
 この様なことは習慣が異なるので非難というのはできないが、大学で日本語を教える先生もガイドをやったり、日系企業でアルバイトをする。日本人のプラハ観光ブームと日系企業の進出ブームが日本語を少しでも操る人の料金を跳ね上げてしまった。だから、市場原理がつよく働いている希少言語の分野なのだ。ただし稀少ではない英語ガイドさえ安くはない。


*p5*タクシー
 妻は二人があすプラハ空港から帰国の途に着くので、翌朝タクシーに乗りエアポートで帰国手続きを済ませるまで付き合うことにして今晩は二人と同じ部屋に泊まる。このタクシー手配は妻が日本の旅行代理店に頼んでいたが,ホテルで明日のタクシーを確認すると,レセプションの女性は,彼女たちのタクシーは予約も手配もしていないという。
 それでは仕方ないのでレセプションの女性にタクシーを予約手配してもらった。タクシー代金は明日本人たちが払うことになった。そして私は電車の深夜便でオロモウツに向かった。
 このタクシー手配の件で帰国後に旅行代理店にクレームを出した。そして私が理解したのは,この日本の大手代理店はタクシー手配をプラハの大手の旅行代理店に依頼して予約をとって,本人たちは日本出発の前に日本で円払いしていた。それにもかかわらず,だれもホテルにはその旨連絡をしていなかった。本人たちはプラハでどこそこにタクシーの件で確認するようにという指示は日本で受けていなかった。
 これも後日判明したことだが,タクシーは代理店が手配したように約束の時間にホテル前にきて本人たちを待っていたそうである。この手の間違いやトラブルはこの国ではときどき発生する。まだまだ何事に於いても,特にサービスと段取りにおいて細やかな心遣いが行き届いていないからだ。言語に少しぐらい自信があっても,意志疎通と通信には念には念を入れて確約し,その上にこちらから最終確認を怠ってはならない。


*p6*深夜の電車
電車のコンパートメントにはドイツでサッカーW杯を観戦した米国人学生が二人いた。私も一緒になってビールを飲み交わして会話が続いた。満員の電車はウイーンが最終駅である。この学生たちは米国チームが一次リーグで敗退したので、これから観光して帰国するという。その一人が言った。「プラハで食事しているときカメラを後ろに置いたが一瞬のあとなくなった」と。
サッカーの試合で撮った写真が恨めしいと残念がるのはとうぜんだ。気の毒な男であった。

http://4travel.jp/traveler/fk/album/10031955/ ぶらりプラハ
http://4travel.jp/traveler/fk/album/10027555/ 文化遺産のあるプラハ
http://4travel.jp/traveler/fk/album/10054370/ 200冬のプラハ