聖人物語はいつブームになるか?

わたしはよく思うが、聖人に列せられた人物は実在した者もそうでない者も波乱に富んだ人生をおくったようで偉人風の人生物語になっているから、キリスト教が育った風土を知るのに役立つのではなかろうか。まったくこの世に実在できそうもないストーリーのギリシャ神話が幼児に読んで聞かせたい物語だとすると、神話よりもはるかに新しい物語だから、自分の趣味として読むと、往時のその地の世界観が理解できそうな、不思議なストーリーだと思う。いつかは日本でもキリスト教の聖人物語がブームになる予感がする。キリスト教で認められた日本人の聖人だって、いるのである。

世界文化遺産というもの

この35メートルの文化遺産は日本人にとって簡単に値打ちや意味がわかる代物でない。世界中には目の覚めるような美しい遺産、巨大な遺構、大自然などたくさんあるから、すでにそれらを見学された方にとり、これが世界文化遺産なのかとむしろいぶかしがる日本人は多い。でも少しだけといえどもその歴史の特徴を学ぶことができたので、もう一度「聖三位一体」の柱を正面外見から見学した。


簡素な造りの日本に残る神社やお城を美しいと鑑賞する美意識からすると、金襴豪華で出っ張りがなにやら意味を成している柱頭の一体物や下半分には石像がほぼ左右均等に配置されている柱の全体をながめて、ずいぶんと物々しいあまり格好のよくない物体があるという感じにも見えてしまうかもしれない。


柱頭に座っているのがいわゆるオロモウツの「聖三位一体」で、左手を天にかざす父なる神、右手に十字架をもつイエス・キリスト、真ん中にシンボルである鳩がとまって光を天に放つ精霊が一体となって神を表す。
その下に剣をたずさえて天国を守る大天使ミハル(又はミカエル)が座っている。彼の下方向は地上であり、真下にちょうどマリアが二人の天使に助けられて天国に昇天する場面が目に入ってくる。一見すると、上方にいる大天使がマリア様を引っ張り上げているように思えるが、そうではなくて、天国と地上を自由に飛ぶことのできる天使がマリア様を天に導いている。そこまでの石像は金箔が貼られて金色に輝いている。


キリスト教のいう地上を見るが、正面の礼拝堂入口の手前には、左右に二人の天使が松明トーチをかかえている。夜は明かりをともして信者を迎えてくれたのだろう。
礼拝堂入口の半円アーチの上には文字が刻んである。宗主国オーストリア皇帝と后が列席あそばしてこの記念碑を神様に奉納いたします、という内容。
その上の円形縁のなかに浮彫りされた人物はイエスの12使徒のなかでも一番弟子であった聖人ペトロ(ペトゥル)。ローマで布教活動を行っていたペトロは時の暴君ネロに捕まり十字架に架けられたが,神様であるイエス・キリストとおなじ姿ではおそれ多いと自ら頭をしたに逆さに架けられたのだった。
なお、礼拝堂の分厚い壁外側には12使徒みなの浮彫りが施されている。


 もう一度礼拝堂の入口をながめる。石像がそれぞれの柱の上に立っているが、一段目の右側には若きヴァーツラフの像。彼は殉死して「ボヘミアを守る聖人」としてチェコを見守り、困難が現れると馬にまたがり国の困難に立ち向かうと言い伝えられている。彼の名を冠したヴァーツラフ大教会はオロモウツの観光スポットの一つとなっている。
 一段目の左方向には、聖人モジツが立っている。モジツはアフリカ生まれのローマの軍人だったが後にオーストリアを守る聖人として列聖した。彼の名を冠した聖モジツ教会もオロモウツの観光名所で、とくに国際パイプオルガンの音楽祭で知られている。


二段目の左右にみられるのが、チェコキリスト教を伝えた二人の聖人で、「モラビアを守る聖人」ツィリルとメトディウス。そして三段目左右の聖人は、聖母マリアの両親である。



そのほかにもたくさんの聖人像がたっている。イエスの育ての父、洗礼を制度化したバプディスト、市庁舎の礼拝堂を守る聖人、私物をすべて貧しい人に与えたスペイン生まれの聖人、懺悔の秘密を守って殺された聖人二人、イタリア生まれの消防の聖人、などが立っている。

町の特徴を醸し出す歴史

 この町の突出した特徴は,カトリックが権勢を欲しいままにふるった時代から司教座があったことにある。時を経て司教座は大司教座に昇格して,ますます贅の限りを尽くした。もうひとつの特徴は,宗主国ハプスブルク家の帝国領土をまもる砦として発展したことだ。それらは長い歴史のあいだにあらゆる面でドイツ文化の影響を徹底的に受けてきたという特色を際だせることになる。この町はドイツ人に支配され続けてきたと表現する方が分かりやすい。


第二次大戦ではチェコ全土はドイツに支配されて、好まないのにドイツ軍のための武器弾薬などの物資を製造して供給するという侮辱的な経験をした。そのお陰というのか、歴史の皮肉か大戦中には戦場にならなかった。オロモウツの工業と産業、さらに軍事施設はドイツのものであった。


チェコが二度目の独立を果たした直後にはソ連邦に組み入れられてしまったがこれも人々が望んだことではなかった。オロモウツには社会主義時代にはロシアの大部隊が駐留した。人々はひっそりと、そして地味に暮らすよりなかった。大きなグループで踊ったりするのは許されることでなかった。


 そして,その歴史が古い貴重な建築物をたくさん生き延びさせてきた。社会主義時代にボロボロに朽ちさびたそれら記念的な教会,宮殿,建物物などが21世紀になり修復されていまやっと蘇えりつつある町なのだ。
贅沢だった司教・大司教が建築・改築した豪華絢爛たる装飾を戴く建造物はいまでは遠くからも注目され始めて観光客が毎年少しずつ増えている。それが古都オロモウツである。


旧市街の広場に聳える「聖三位一体碑」が2000年にユネスコ文化遺産に登録されて一躍有名になった。大火に,戦争に,ペストに,くり返し襲われては廃墟に化したが,その度に聖職者の尽力で蘇った。1700年代末期に大火災があった。1710年代のペストでは3万の都市住民が1,500人だけ生き残るという有様、凄まじい伝染病だった。その様な過酷な歴史を経て、ペストが収まったのを神に感謝して建造されたのが,この文化遺産であった。(その後の歴史も過酷であり続けたのだが)


女帝マリア・テレジアも皇帝も聖三位一体碑の開幕式に参列した。枢機卿というローマ教皇の次に高位にある聖職者もオロモウツに馳せ参じた。その場面の大きな絵画はときの最高権力者たちが集まる華やかな絵巻そのもので、オロモウツ大司教博物館に飾られている。
この碑はローマカトリック教の戦勝記念でもある。

6月26日

聖三位一体コラム(柱)という記念碑がチェコ共和国オロモウツ世界文化遺産に登録されたのはミレニアムの年2000年で、その最後の月にユネスコ登録記念のお祭があった。静かな古都にとっては近年始めての賑わいで、人口の大半が市街に繰り出す騒ぎだった。


 天気のよい季節になるとこのコラムの内部にある礼拝堂で尼僧がカトリックのせつめいや聖三位一体のコラムについての説明をしている。この尼僧は懇切丁寧なお話をしてくださるが、いかんせんわたしには言葉の障壁があってさっぱり分からなかった。今日こそはとヤロさんの通訳でお話をうかがうことになった。30分以上もかけていろいろな側面からカトリックにまつわる物語を説いていただいた。そしていままでボヤーとしていたオロモウツという町の歴史的な特徴がわたしには、はっきりしてきた。ここで改めてわたしなりに捉えたこの都市のイメージを書いておきたい。

6月25日

いそがしい海外出張のあいだを割いてパリからわざわざ観光資源を調べるためにオロモウツに来られた方をぜひともわが友ヨゼフに紹介しておきたいと考えて、彼の事務所に出向いた。みな忙しいので、10分ほど雑談をして分かれる。フジトラベルの岸さんは電車でプラハに向かった。
 わたしは自分のPCの置いてある部屋で一時間ばかり過ごしてから、妻とプラハに向かったが、運良くイタリア製のペンドリーノという今年のビッグニュースになっている高速電車の乗り心地を試す機会となった。


*p1*ペンドリーノ
 チェコEU欧州連合)加盟にそなえてインフラ整備を急いできたが、鉄道に関してもそうでレールの取替えと、曲がりくねっていた場所ではなるべく直線にするための新たな路線の敷設、駅構内はバリアフリーに近づける工事やあらたな駅の建設、トンネルの工事など続けていた。そして、イタリア製のペンドリーノの運行が今年2006年1月から始まった。前評判の高かったこの数台のペンドリーノエンジンは、だが、ながねんのチェコ当局とイタリアのメーカーとの技術的打ち合わせにも関わらず、不幸なことに冬季はすべて不調だった。途中でとまって動かないという不都合が続いて発生して、鉄道は大混乱に陥ってしまった。わたしも日本人で最初にペンドリーノを体験すべく1月には切符を手に入れて乗り込む寸前でキャンセルされてしまったという苦々しい経験がある。
駅構内でまっているが、30分遅れがアナウンスされる、そのあとにさらに50分遅れ、その次には2時間遅れとスピーカーから連絡していた。駅員に尋ねるといつ動くか分からない、という返事しかもどってこない。こうなるとその電車は早めにあきらめるのがよい。だが、その電車が主要駅のあいだでとまって動かない場合は、その日一日中電車を待つことになるかもしれない。わたしはその日急ぎの用事があったから電車以外の交通手段を考える必要があった。


 ただし、この2006年の冬は欧州どこでもたいへんな厳寒で、その例外的に厳しい寒さがペンドリーノのエンジンに不調をきたす原因だった。チェコでは自動車も動かなくなったが、寒冷地ではほぼどのメーカーの車もみな支障をきたした。ジーゼルの凍結という問題が発生したのだった。わたしはトヨタ車でボヘミアモラヴィア山地を走っているときにそのトラブルに直面した。一面雪に覆われた高原でエンジン不調の警告を発生する設定温度に達して車の制御が利かなくなった。それは早朝だったから、たいへんな思いをしてサービスを受けるために車を修理工場に運んでもらっておいて運良くポーランドからやって来た車に便乗させてもらい目的地のプラハまで行き着いたのだった。


 春になってからペンドリーノは順調に走るようになった。約250キロのプラハオロモウツ間は以前の特急では3時間半程度は覚悟せねばならないが、ペンドリーノでは路線も直線が長いのと停車駅が少なくなり、2時間と少しになった。ひじょうに快適なスーパー特急である。もちろん日本の新幹線に比べるのは気の毒であろう。フランス自慢の新幹線でもそうなのだから。

 
 プラハについてホリショビツェ駅構内で食事をするつもりだったが、昼食時間を過ぎていたために、スープさえももうなかったから、今晩妻が宿泊するホテル近くのトルコ料理店を妻に紹介した。チェコではまだトルコ料理はめずらしいので珍しいシシカバブなどを妻は美味しそうに食べていた。

トルコ人たちがわたしたちに話しかけてきたので雑談をした。日本語を少し理解する気前のいい男性がいてタバコ一本とトルコ・コーヒーをおごってくれた。大阪女性と付き合っていたときに日本語を覚えたと言っていた。
彼らはTVの周りに集まり、米国がテロを撲滅するという報道に息を潜めて耳を傾けていたが、分かれるときにはひとつ忠告してくれた。プラハではドロボーに気をつけるようにと。


 
 今日プラハに来た目的は、さくじつ天文時計のある搭に登る途中で財布の中身を上手にすりとられた女性を励ますためだった。彼女と友達の二人は今日は通訳付きでプラハ南部へ足を伸ばしていたが、わたしたちがプラハ到着するころにはホテルに戻っているはずだった。だがどうしたことかバスで出かけていて、大渋滞にまきこまれ何時になったらプラハに着くのか分からないという連絡が携帯電話に入った。それで、時間つぶしでカレル橋にいってみた。


*p2*カレル橋のザビエル像
カレル橋の雑踏のなか,いならぶ聖人像のなかに、わが国にキリスト教を伝道した「海外布教の聖人」の像がある。イエズス会設立のメンバーの一人でもあったザビエルは日本をほめたたえた敬虔なる宣教師だった。宗教戦争を繰り返した欧州が殺伐とした魔女狩り旋風の中にある暗いくらい本家キリスト文明からやってきて、比較すればとてつもなく平和な日本で、親切で人のいい日本人とつきあって、人間というものが風土・環境によって影響されるものだと考えたかも知れない。またはまだそれほど多くの海外文明に触れていなくて,地球文明の分析はできなかったもかも知れない。ともあれ,日本についての彼の印象はすこぶるよかった。


「この国のかたち」二 司馬遼太郎 文春文庫 P.236 「聖サンフランシスコ・ザビエル全書簡」(アルベール神父・河野純徳訳・平凡社)から引用する。
 「-----この国の人びとは今までに発見された国民のなかで最高であり,日本人より優れている人びとは,異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく,一般に善良で,悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで,他の何ものよりも名誉を重んじます。大部分の人びとは貧しいのですが,武士も,そうでない人々も,貧しいことを不名誉とは思っていません。」


日本歴史の大事件のひとつは信長が宗教の政治への介入を叩きのめしたことであろう。私利私欲にかられた僧侶たちを徹底的に殺戮してしまった。それは日本にとってひじょうに幸運したというのは今では定説になっている。


男の肖像 塩野七生 文春文庫P.74から引用してみたい。
 「織田信長が日本人に与えた最大の贈物は,比叡山焼討ちや長島,越前の一向宗徒との対決や石山本願寺攻めに示されたような,狂信の徒の皆殺しである。」
(中略)
 「キリスト教徒だって,信長の存命中はおとなしかったから仲良くしてもらえたので,他の布教国で行っていたようなことを日本でもやりはじめたら,とたんに信長から「焼討ち」にされていたであろう。とくに,日本への主力は,イエズス会という,ヨーロッパでさえ追放せざるをえなかった国があったほどの,「悪名」高き戦闘集団であった。」


P.76 「この四百年の間政教分離の伝統を維持してきた国は,欧米諸国が現在にいたるまで,この問題で悩み苦しまされてきた実情を知れば,われわれのもつ幸運の大きさに,日本人がまず驚嘆するであろう。」


かっての日本のよき時代を垣間見た欧州人には、わが国を最大限の賞賛でもって言い
表した人々が多くいた。イエズス会のザビエルでさえ彼にとっては異端の日本人をほめたのだった。


*p3*スリにあった人
大渋滞のなかバスでご夫人3名がプラハに戻ってきた。疲れきっていたが、さっそく手提げかばんにいれた財布から現金とカードがいかに手際よくすられたのか驚きの声で説明した。
ビールを飲みに出かけたら、ひとつの門を眺めるのに都合のいいレストランがあるのでそこの道路わきの席にすわった。夕陽がつるべ落とし、夜の雰囲気になった。



 細かい説明を聞いた。彼女たちはその事件を報告に警察にいった。警察の建物で4時間待たされたそのあいだの印象は恐ろしく、泥棒にあった人々がたくさんいたし、話しかけてくる連中も泥棒にみえてしまったそうである。置き引きなんぞ日常茶飯事となっている大都市のプラハならではの経験を3女性は体験してしまった。遠くの地に観光で行って、貴重な時間のうち半日も失った二人は悔しく思った。


*p4*チェコの通訳
 通訳のことを少し書いておきたい。チェコでも日本語は希少言語であるから通訳も翻訳もとても高い。なぜそんなに高いのか、まだ生活物価の低いチェコには不相応でないかと日本語学生に質問したことがあった。返事は、ヨーロッパのどこでも高いですよ、という理屈がかえってきた。たしかに、希少なものやまだ一般的に出回っていないもの、贅沢な自動車や電化製品,電子製品等はお隣のオーストリアやドイツよりも高いぐらいだ。まだまだ起業家の生まれにくいという競争原理のはたらかない若い自由経済だから仕方のないことであろう。


 二人の日本女性に紹介したチェコ人は日本語を学んでいる学生で、妻が親しくしているプラハ在住の女性だった。
 オロモウツを出発してプラハ到着の時点から二人の観光者を案内して欲しいと頼んでいた。到着した二人にはプラットホームにポーターも待っていたそうだ。このポーターに支払いが生じた。駅をでると通訳はタクシーを呼んだ。駅から歩いて5分のところのホテルを予約したのに、一方通行でおおまわりしなくてはならないタクシーを利用した。ホテルではまたポーターを使い荷物を部屋に運ばせた。そのチップが約500円だった。言いなりにならざるを得ない二人だったが、その後もなんだかんだと出費がかさみ、その高さに驚いていた。物価のやすいチェコ東部で一週間ほどかなり豪華に旅行を続けた後にプラハと近郊を歩いてた印象は,プラハでは何でも値段が高くてお金が飛んでいった,だった。


 この通訳はけっして安い料金を二人に請求したのではなかったが、最初の夜,分かれるときには、ホテルに近くもないのに、自分の電車の都合いい場所でさよならと言って電車に飛び乗ったそうである。次の日には朝ホテルに電話して、どこそこで待っているから来てくれと言ったそうだから、僕もちょっと呆れた。
 この様なことは習慣が異なるので非難というのはできないが、大学で日本語を教える先生もガイドをやったり、日系企業でアルバイトをする。日本人のプラハ観光ブームと日系企業の進出ブームが日本語を少しでも操る人の料金を跳ね上げてしまった。だから、市場原理がつよく働いている希少言語の分野なのだ。ただし稀少ではない英語ガイドさえ安くはない。


*p5*タクシー
 妻は二人があすプラハ空港から帰国の途に着くので、翌朝タクシーに乗りエアポートで帰国手続きを済ませるまで付き合うことにして今晩は二人と同じ部屋に泊まる。このタクシー手配は妻が日本の旅行代理店に頼んでいたが,ホテルで明日のタクシーを確認すると,レセプションの女性は,彼女たちのタクシーは予約も手配もしていないという。
 それでは仕方ないのでレセプションの女性にタクシーを予約手配してもらった。タクシー代金は明日本人たちが払うことになった。そして私は電車の深夜便でオロモウツに向かった。
 このタクシー手配の件で帰国後に旅行代理店にクレームを出した。そして私が理解したのは,この日本の大手代理店はタクシー手配をプラハの大手の旅行代理店に依頼して予約をとって,本人たちは日本出発の前に日本で円払いしていた。それにもかかわらず,だれもホテルにはその旨連絡をしていなかった。本人たちはプラハでどこそこにタクシーの件で確認するようにという指示は日本で受けていなかった。
 これも後日判明したことだが,タクシーは代理店が手配したように約束の時間にホテル前にきて本人たちを待っていたそうである。この手の間違いやトラブルはこの国ではときどき発生する。まだまだ何事に於いても,特にサービスと段取りにおいて細やかな心遣いが行き届いていないからだ。言語に少しぐらい自信があっても,意志疎通と通信には念には念を入れて確約し,その上にこちらから最終確認を怠ってはならない。


*p6*深夜の電車
電車のコンパートメントにはドイツでサッカーW杯を観戦した米国人学生が二人いた。私も一緒になってビールを飲み交わして会話が続いた。満員の電車はウイーンが最終駅である。この学生たちは米国チームが一次リーグで敗退したので、これから観光して帰国するという。その一人が言った。「プラハで食事しているときカメラを後ろに置いたが一瞬のあとなくなった」と。
サッカーの試合で撮った写真が恨めしいと残念がるのはとうぜんだ。気の毒な男であった。

http://4travel.jp/traveler/fk/album/10031955/ ぶらりプラハ
http://4travel.jp/traveler/fk/album/10027555/ 文化遺産のあるプラハ
http://4travel.jp/traveler/fk/album/10054370/ 200冬のプラハ

6月24日

ある地元の旅行代理店オーナーが一日わたしたちを案内するという。親切な申出なのでわたしたちはWさんの乗用車に乗り込んだ。

*オロモウツ・チーズ
オロモウツの名産をひとつあげて欲しいと問われれば、多くの地元の方はオロモウツチーズとよばれる変わったチーズを思い浮かべ、ちょっと嬉しそうな笑顔をするだろう。においが強烈だが食べなれるととても美味しくなるというチーズで、オロモウツケー・トゥヴァルシュキという。「初めての人にはとても無理だろうな…食べにくいだろうな…匂いがつよいのよ… でも試してみたら」とオロモウツ人は言う。
オロモウツチーズの村ロシュティツェには、オロモウツケー・トゥヴァルシュキ博物館がありその1876年以降の歴史とチーズ生産の道具類が一般公開されている。
2,000トンの年間生産というからかなり大量で、オロモウツのレストランならばどこでもメニューの一品に加えられている。たいがい油で揚げて提供されるから匂いはかれらが思うほど強烈ではない。生のトゥヴァルシュキだと外国人にとってははじめ匂いが鼻について後ずさりするだろうが、料理したそれを恐る恐る食べてみて、数度口にすればいがいと美味しい、数日後に口に入れると味が分かってくる、という代物だ。日本の納豆と思えばいい。風土に合う伝統の味わいが溶け込むオロモウツチーズの天ぷらである。たいがい、パフリカ、キュウリ、ジャガイモが添えられて一食となる。

オロモウツチーズの村は広場でお祭だった。今日は夏の土曜日にふさわしい賑やかな音楽が流れ若い男女が集まっている。

*プラハ観光
そのとき私の携帯電話がなった。プラハのガイドを伴っているわが二人のうちの派手な衣装をまとっている方からだ… プラハの天文時計の搭の中で財布から現金とクレジット・カードが抜取られた、というのだ。

たまげてしまった。ちゃんとプラハに住む女性ガイドが付き添っているし、最近日帰りでプラハ観光をして少しでも馴染みのある町にいるのではないか、なんどもなんどもプラハは大都市で危ないから気をつけるように注意を促していたのに…
警察に届けること、盗難事件として被害を受けたことを正式な書式に書いてもらうこと、カードがだれかに使われないように、すぐに銀行に連絡するように、などと被害にあった女性にアドヴァイスをするだけしか今はなにもできない。ガイドを引き受けてくれたチェコ娘にも少し助言を与えておいた。

観光旅行代理店のオーナーがわたしたちに見て欲しいのはボウゾフ城なので、少しいそいだ。幹線道路をはずれて丘を越え森林のなかに入ると広々と開拓されている目的地に入った。観光客が多い。

*ボウゾフ城
チェコでも指折りのお城で、地元の人々にも海外からの観光客にも人気のあるボウゾフ城はおとぎ話にでてくるようなロマンチックな造りとして名高い。チェコのお城や宮殿、それとカタコンブとよばれる大型の洞窟は映画の撮影にひんぱんにつかわれるが、チェコの子供にとっては絶対に行ってみたいところがこのボウゾフ城だといって構わない。
このお城の特徴は、実に頑丈な造りになっていることだろう。武士たちがたてこもり激しい戦闘に耐えて生活するために築城された建造物であれば、山懐の森林に覆われた小高い丘に建てられているのが普通だが、このお城はちょっとだけ小高い丘にそびえている。このお城は戦争に巻き込まれたことがあるのだろうか?

そとから正面をもう一度しげしげと眺めると、石造りの城壁は石のいろがそのままでごつい感じがするが、小粒の石畳の壁のように映っている。ゲートの造りも、左右に広がる建て方も左と右の均衡がまったくとれていない。左にキリスト教を伝道した聖人の石造があれば普通は彼の相棒の石像が右にあるのが自然なのに、相方はいない。お城の正面に半円アーチのベランダがある。右にはない。左の四角い窓と右のそれとはまったく不釣合いのところにはめ込まれている。左の屋根の陽窓もそうなっている。太陽時計が右側だけにうんと目立つ色で浮き彫りのように組み込んである。うしろに見える搭の窓々もランダムに配置されている。塔の上の三角屋根の窓もそうなのだ。

それらの変わった設計であるのに関わらず、美しいと表現できないのに,不思議に素敵なのである。それが、このお城の第一印象だった。つまり、装飾の要素ひとつひとつはロマンチックであるのに、装飾はたくさんあるのに,均衡というような大人の美意識には関係がないつくり… 
言い換える必要がありそうだ。かわいいロマネスク風な要素がいっぱいバロック風に散らばっているが、ゴシック時代のはでな雨ダクトが全体としては小粒においてあって、建物のパーツが日陰をつくり、とっても妖精的!! 紺碧の空を背景としたボウゾフ城正面は一幅の絵である。
城壁でぐるりと囲んだ中庭から見上げる場合には、不均衡の人工美に、騎士の風格が放つ荒々しさが加わって、楽しめる美しさというのを感じる。子どもに大人気な美しさなのである。

お城内部の観光ではガイドにより説明を受ける。だが、展示品の数々をここで説明するのは割愛しておこうと思う。

*ドイツ騎士団
このお城の起源はボウゾフ家が砦を築いた14世紀はじめに遡り、その後所有者は時代とともに変わり、最後には1696年ドイツ騎士団修道会がボウゾフ城と周辺一帯の広大な領土を購入してドイツ人支配に下った。チェコは国の運命というものか、宗教戦争の地として記憶されるが、チェコ人による宗教改革の30年戦争というのが決定的な歴史のその時であった。この戦いにけっきょくは敗れたのだが、主なる相手がカトリック教に敬虔なハプスブルク家であり、敗戦後チェコ貴族は殺されるか帝国外に追放されてしまった。つまり、彼らの領土財産はハプスブルク家をふくむドイツ人のものになった。戦いに功績のあったものハプスブルク家に都合のよい者に領土財産は分けられたのだった。ここではボウゾフ城だが、1696年にドイツ騎士団修道会のお城となった。

ところが彼らはボウゾフ城には興味がなくて、権力者が誰も住まないから、風雪にいためられたお城は19世紀後半にはボロボロになっていた。そのボロボロの城が格好よかったらしくて、鉄道網による大旅行ブームの時代、産業革命で豊かになった人々の観光スポットとなった。まだ領主であるドイツ騎士団の居城は近くのブルンタル城かウイーンの宮殿であった。

ところが、19世紀終わりに近い1894年になって、新しい騎士団の長官がやってきてからこの城は大改築されて騎士団の住む城館となった。この時すでに戦争目的の意味はなく、ロマンチックな彼の好みにより、豊かな財源を投入、15年間の歳月をかけて現在の形に仕上げたのである。ドイツ人建築家により中世十字軍の居城イメージをボウゾフ城の姿として蘇らせたものなのである。その長官はハプスブルク家のオイゲン大公だった。
 
*栄枯盛衰
尾ひれを付けておこう。1939年に騎士団のこの領土はナチドイツに没収され、第二次大戦後チェコスロヴァキアはドイツ人を追放し財産を没収した。さきに書いた世界文化遺産のレドニツェもドイツ系リヒテンシュタイン家のものであったからリヒテンシュタイン家も追放されたし、またボウゾフ城の所有者だったドイツ騎士団修道会のメンバーも追放された。戦前チェコの価値ある財産はどれもドイツ系のものであった。追放命令で300万人以上のドイツ人はチェコスロヴァキアから命からがら逃れることができたが、30万人にも及ぶドイツ人は殺されたり自殺したり、戦後の大混乱が起こった。中欧諸国ではどこでもおなじような悲しみが起きた。日本が満州と千島列島で体験したのとおなじ戦後の悲劇がここでもあったことを記憶しておきたい。

きれいなお城を見学して満足したわたしたちはホテルに向かった。
*歴史
保守管理が行き届いたきれいな遺産もあれば一方でいつかは取り払われるような遺構もある、そんなことを道中考えてみた…すごく辺鄙なところにある、小さすぎる館やお城は値打ちが全くないから、むかし権力と富をもってなんでもできたドイツ人も興味がなかったし社会主義時代にもまったく注目されなかったから、崩れかかっている。今にも完全な瓦礫の山になっても不思議でない朽ち果て弱っている石の固まり、そのようなボロボロな古城を、だれも関心のない建物を、わたしは二箇所で遠くから見学したことがある。崩壊の危険があるから近づけないわけであるが、それほど古いものがチェコにはいまだに残っているのである。
http://4travel.jp/traveler/fk/album/10085068/

6月23日

*旅行代理店
 この度のチェコ訪問のまえに偶然なことで旅行代理店の方と東京でお会いしていた。チェコ東部の観光事情をご説明していまだ世の中に知られていないのに観光の資源がたくさんある地方であるこのモラヴィア地方は日本人の好きそうな手ごろな名所がたく散らばっている話をだしていた。
 パリでアパルトマン手配やべつの仕事を終わらせてから週末をはさんで時間が工面できるという。それでパリからプラハ経由でオロモウツまで足を運んでいただいた。今年になって運行が始まったSCと称されるイタリア製ペンドリーノではプラハからオロモウツ駅まで1時間20分程度で到着する。


 わたしが市の観光局の方と談笑中にその岸譲さんは駅に到着されたから、友達に出迎えでもらい旧市街まで連れてきてもらった。そこでランドマークである旧市街の聖三位一体碑の前で落合って空腹の岸譲さんと友達とでさっそく食事をとった。
 伝統衣装の飾りがたくさんあるので人々が知っているレストランのビフテキはなかなか美味しいものだから、パリで34年間も暮らした岸譲さんも舌鼓を打っていた。サービスをうけもった女性のあいそがひどく悪くて閉口したけれども、それでも粋な雰囲気の中でわたしたち3名は食事に満足した。


 一通りフジトラベルの岸譲さんに旧市街だけをご案内しておいてから、約束していたホテルの支配人と話し合い、それから運輸会社のマネジャーとあれこれ観光業界の話をきいたりした。


 地もとのブランドであるリトヴェル・ビールを飲み話し込んだが、観光のインフラができていないというのをわたしと岸譲さんは嘆いた。業界の方がプロの目でみたり聞いたりした初印象がそうなのだから、そうなのだろうと納得せざるを得なかった。