6月22日

 今日でチェコを離れて帰国の途につく方はミニバスでプラハに向かった。プラハからモスクワ経由で帰国するのは明日のことになる。残留組と称してもう少し異国の滞在を予定されている3名の女性は日本語通訳をともなってタクシーでポーランド日帰りの旅に早朝出発した。いままでずっと快晴の日が続いてラッキーな旅人たち!! 


 わたしはノンビリしたかったからオロモウツに居残る。そして約束していた人たちに次々と再会した。


 今日チェコを離れる方々はけっきょくこのオロモウツという町をそれほど見学することもなく終わったのだから海外旅行というのはじつに忙しいと思う。というのは、出発前の旅の企画を練る段階から、せっかく遠路はるばるとヨーロッパまで行くのだからウイーンにも行きたい、ポーランドも見たい、ハンガリーブダペストも、やっぱりチェコなら首都のプラハも行かなくては、プラハには二泊しないと、という様な希望が方々から噴出した。方々の希望に沿うようにまとめて決行するという計画はじっさいに遂行してみるとほんとうに忙しくて目が回るほどの旅程だった。途中で疲れを感じた方もいた。でも…それでも結論ではたいへん満足のいく楽しい日々だったという。


*オロモウツ
 オロモウツについて書いておきたい。
チェコ共和国東部のオロモウツという町は地味なところである。21世紀にはいって県制が敷かれチェコ14県のひとつの県名となった。そのオロモウツ県の県庁所在地がオロモウツ市である。オロモウツ市は,チェコ共和国のなかで際だって派手に知られている首都プラハ次ぐ文化都市であるにもかかわらず,ひっそりと佇む古都の趣があり,たまたま訪れた日本人の多くがまたきっと時間の余裕をもって訪れてみたいという。首都から遠くでかけるのに時間がかかってしまう難点から言うと日本の奈良によく似ている。が,日本人好みの古い記念碑があちこちにそれとなく残っている。二つの落ち着いて上品な古都は雰囲気も似ている。


この古都に名門大学があり日本語のクラスがあるという縁で学生の交換留学制度がある。だから交換学生を受け入れている日本の大学の先生方とチェコ語学生のあいだにはオロモウツはよく知られている。


日本人のあいだでオロモウツをよく知るグループはもうひとつある。チェコを代表する伝統の舞踏グループがオロモウツ県にある。オロモウツ県の平坦な南部は古来ハナー地域と呼ばれてきた。肥沃な土地柄から農業,農産物加工と農機具の産業で繁栄してきた。オロモウツ県のなかの大きな都市はオロモウツ,プシェロフそれにプロスチェヨフ市がある。3都市はお互い地理的には近いが経済発展の歴史はとても異なっている。それでも,ハナー文化を町と連想するときには,それら三つの都市を思い出す。そのなかでもっとも頻繁に引き合いに出されるのがオロモウツ市となっている。


観光資源がたくさん眠っているということから,市長も観光局ももっと外国から訪問して自慢の文化を見聞してほしいというが,まだ彼らの努力は報われていない。が,国の政策として,自由化後15年の反省からか,チェコ西部の発展ばかりが目立つので東部にも力を注ぐ機運がでてきた。観光政策でもオロモウツに重点がおかれつつある。


周辺地域にも素晴らしい文化遺産はもちろん美しい山岳があり,電車やバスを使って歩き回ればどこでも日本人好みの旅を発見できそうである。まだ観光ずれをしていないから新鮮な旅の味わいを楽しむことができそうなのだ。それには,少し歩き方を知っておく方がよいだろう。道案内のつもりで筆を進めていこうと思う。


もう少し歴史を知って中世都市を歩きたいので、もう一度ちょっと古都オロモウツの過去に焦点を置いて書いておきたい。


*オロモウツに焦点をあてた歴史
 この町は5〜6世紀の民族大移動のあと先住のスラヴ民族と新参者のドイツ人が共存してきた地方というとても重要な特色がある。ドイツ人の司祭がスラヴ民族とドイツ民族の共生を指導したのが影響した。オロモウツ県南部のハナー地域の都市にもドイツ人が多く住むようになると経済・政治・文化にドイツ民族の影響が強く反映するようになったが,オロモウツ市と近隣はドイツ人がとくべつ多い地方になった。13世紀にはユダヤ人も入植を始めた。それだけ発展していたのと,それからもますます発展しそうだからである。

 
863年 ギリシャからキリスト教伝来
 955年頃 スラブ人部族を統一してチェコ領土を形作ったプシェミスル家がオロモウツの城主となり1019年にはオロモウツをプシェミスル家のappanage(辺境領土)とした。
 1063年 オロモウツに司教座がおかれる
 1078年 ベネディクト修道院フラディスコ設立
 1241年 1242年にかけてモンゴール帝国タタール軍のチェコ襲撃
1306年 スラヴ族プシェミスル家の男系最後の王がオロモウツで殺害される。
その後は親類のルクセンブルク家がチェコ王位を継ぐことになる。
1346年 1378年までルクセンブルク家のカレル四世が君臨,華麗なるプラハ
1378年 ルクセンブルク家によりオロモウツ市庁舎建設の許可が下りる
1415年 宗教改革を唱えたヤン・フス異端裁判の結果火焙りの刑
オロモウツでもフス派二人が火焙りの刑
1469年 マターシュ・コルヴィーン ボヘミア王を名乗る,オロモウツにて
1519年 天文時計についての初めての記録が1519年であった
 1573年 大学(現在のパラツキー大学)が設立される
パラツキーは建国の父と尊敬されている歴史学者で政治家。チェコで頻繁にでてくる歴史上の有名人は,聖人ヴァーツラフとパラツキー
 1618年  1648年まで30年戦争 オロモウツも戦いの場と化す。
 1620年 オロモウツにて拷問によるサルカンデルの殉死
 1641年 戦場のオロモウツモラヴィアの首都という立場を失う
 1642年  〜1650年 スウェーデン軍の占領により破壊されたオロモウツ
廃墟に帰した。
18世紀初めには司教やイエズス会等の活躍で宗教建築物などが修復されオロモウツは廃墟から復活を始めたが,大火やペストによりふたたび人口が激減した。


 1742年 オロモウツ一時プロシャにより占領される。
 1754年 オロモウツの聖三位一体碑完成


*オロモウツは城塞都市だった
オロモウツは帝国の北の砦としてマリア・テレジアの命令で大工事が施されオロモウツは城塞の町となった。自然の岩盤を利用したり高く分厚い石垣で町は囲まれその周囲は掘りで防衛された。1758年プロシャ軍隊に襲われたときはオロモウツは反撃に成功した。しかし宗主国であるオーストリア帝国はプロシャに奪われたシレジア地方の奪回ならず結局のところ7年戦争(1756年〜1763年)でもプロシャに敗れて,失った領土はその後チェコに戻ることはなくなってしまった。


1777年 オロモウツの司教座は大司教座に昇格された
 1781年 宗主国の皇帝ヨゼフ二世によりチェコ領土でも農奴制の廃止


19世紀になってナポレオン戦争が帝国領土を荒らしまわったときには,オロモウツ城塞都市は帝国の軍事基地の面目をほどこしたのであるが,オーストリア帝国ロシア帝国の軍人はオロモウツ城塞から出撃しオロモウツの南,自動車で30分程度の丘陵地帯で戦禍を交えた。1805年,スラスコフ(ドイツ名アウステルリッツ)の三帝会戦として名高い。その後ナポレオンは戦争を拡大していく。


1841年 オロモウツ駅開通して初めて蒸気機関車オロモウツに到着した。車内 ではシューベルトが指揮棒を振った。プシェロフ駅―オロモウツ駅。
1845年 鉄道ウイーン・オロモウツプラハ開通


*ハプスブルク帝国の影響が強いオロモウツ
1848年は帝国にとっても他の欧州各国にとっても大混乱の一年だった。帝国自体に自由を求める反乱・暴動が頻発していたから帝国議会はウイーンをはなれてハナー地域にあるクロムネジーシュという町に移された。その年12月に若きフランツ・ヨゼフがオロモウツで戴冠したのだった。風雨急を告げるマルクス・エンゲルスの「共産党宣言」の発表もこの年だった。


絵画の世界では1800年代半ばは画家のヨゼフ・マネス(1820−1871)が活躍した。10年間ハナー地域のチェフィ・ポッド・コシージェムに住み絵筆をとった。マネスの館とよばれる印象的な四角形の建物のなかで描いた。「マネスの館」は広大な公園のなかにあり手入れをして保存されている。 ハナーの人々(英語ではHanakとしている)の伝統衣装はこのころ定まったもの。日本の着物とおなじで高価な刺繍がちりばめられる衣装は豪華である。マネスは好んで伝統衣装の男女を描いた。
http://4travel.jp/traveler/fk/album/10054422/


1876年 産業革命華々しい時期に城塞や砦などは不要の長物となっていた。鉄道時代はすでに1840年代にとうらいしていたが,この年に不要の砦の撤去作業が始まり1886年帝国の城塞都市としての役割が終わった。


1899年 トラムバイ(市電)開通,これが市民のたいせつな足となる。
1914年  1918第一次世界大戦
1918年 「チェコ・スロバキア」独立


*第二次大戦
1938年 ヒットラーチェコ領土のまわりをぐるりと占領したときオロモウツはまた国土防衛の重要な国境となった。自動車で30分も北に走れば,もうその辺りからヒットラー軍が駐在していた。今なおドイツ軍人の活動と生活を目の前で見聞したお年寄りも多い。その人たちはすでに年金生活を送っているが,時々第二次世界大戦の生々しい思い出が頭に蘇るそうである。憎き敵国に占領された地に,戦時中,生きていたお年寄りは今では静かに余生を暮らしている。1938年から1945年の事である。
第二次世界大戦後には二度目の「チェコ・スロバキア」として独立を果たしたが,首尾よく共産党が政権を握りソ連圏の一国に組み込まれてしまった。社会主義時代はロシアの指導でモラヴィア地方のひとつの中心という地位はオロモウツから北西のオストラヴァ市に移されてしまった。しかもオロモウツは伝統ある軍事基地のある町として多くの軍事関連の施設があったから,1968年のプラハの春を軍事侵略で抑えつけてしまった後からはソ連軍大部隊が駐留した。オロモウツはこの社会主義時期にまた経済停滞に落ち再発展は又チェコ全土と同じくソ連邦解体とそれに続く自由化後まで待たねばならなかった。


*オロモウツの観光スポット
ざっと観光ポイントの要点をメモしてみたい。オロモウツ市を散策するのにはトラムバイと呼ばれる市電を利用するのが便利だ。駅前から奇数番号の市電に乗ると停車は次の順番になっている:
二つ目の駅は(パラツキー)大学前
三つ目の駅は聖ヴァーツラフ教会に最も近い駅で、ドーム駅
四つ目の駅は共和国広場、バロック式噴水が見えるので分かる。
五つ目が商用ビルコルナの前
このコルナの前で市電を降りてはす向かい前方に進むと旧市街の広場に出る。


*旧市街
 旧市街に入るとすぐに中世都市の名残を感じる。ヨーロッパの古い町の中心はどこでも同じような造りになっている。広場がありそのまわりに市庁舎や高層の建物が周囲を囲んでいる。高層建築は貴族の館や宗教建築物である。広場をぐるりと囲む建物のなかには通路があって,広場から出ることができる。広場から見ると横につながっている建物群に切れ目があって,その切れ目からも広場に出入りする。敵の侵入に備える格好に町の中心は造られたが、町造りの構想は市の建設をチェコ王から許されてすぐに練られたもので、歴史を経たいまでも基本的には最初の構想図と比較してもよく似ている。
http://4travel.jp/traveler/fkcz/album/10039141/
*世界文化遺産
 オロモウツ市の旧市街には大きな特徴があって,それが世界文化遺産の「聖三位一体碑」で、広場に入ってすぐ高く聳えているのがまず目に入る。柱頭には燦然と金色に輝く聖三位一体像が座っている。
広場の真ん中付近に現在も使われている市庁舎が建っている。


*市庁舎
(ア) 市庁舎:13世紀半ばにはプシェミスル家オタカル二世が市庁舎の建設を許可したが建築が完了したのは1444年だった。すでにあった隣の商館につながれた建物でいまでもその名残が天文時計の反対側にある。商館といっても市場がたった所といった感じの簡単な建て方になっている。


1474年以降ゴシック様式に改築され,1539年ごろにはルネッサンス様式のアネックスが付設されて現在の形をなした。オロモウツの建築物は古いものでも華やかなバロックに改築されたものが多いが,市庁舎はそうはならなかった。タワーは75メートルの高さで途中まで上ることが出来る。タワーから広場を眺めると眼下には中世の建物ばかりだから,中世には聖職者たちや貴族や商人が往来しただろうと頭のなかでついつい時代を遡る。噴水の水を汲む人たちもいただろう。お祭りの時にははでな衣装を着た男女が踊っていたであろう。式典であれば馬車も人だかりも多く賑わったことだろう。
 戦争とかペストが蔓延したときは、廃墟となったオロモウツだから、そのときは瓦礫の山や、死体が見られたりしたはずである。古い町の中心には歴史がたくさん刻まれている。


建物の東ウイング(天文時計の裏側)には1488年完成の出窓がある。ゴシック時代に豪華な出窓が造られるようになったが建築技術が向上したお陰である。その出窓の内側の部屋は礼拝堂となっているがいまでは礼拝堂らしくはない。結婚式に使う場合には,その礼拝堂にみなが集まって大きなドアで続いている式場に入るようになっている。たまに式場となる部屋には時代物の絵画がたくさん描かれている。この部屋は通常はホールとして使われている。


市庁舎一階はレストランになっており、シーザーの噴水がある方が入口になっている。気品に満ちた昔の建物様式が鑑賞できる。
市庁舎の旧入口の周りに歴史的な紋章が掲げられている。モラビアの紋章で双頭の鷲が描かれていればハプスブルク帝国時代の紋章。右上にモラビアの鷲が浮き彫りになっているのはモラヴィアの紋章、左と右下にチェコのシンボルであるライオンが浮かんでいるのはチェコの紋章、左下にシレジアの鷲が描かれた紋章もある。


シレジアはハプルブルグ帝国が戦争に負けて1742年に失った土地で以降ドイツに割譲されてしまった。そして、第二次大戦後にポーランド領土に組込まれた。


*天文時計
(イ) 天文時計: 最初の天文時計建設は15世紀初頭にさかのぼるといわれているが
その存在記録では1519年となっている。プラハの天文時計とどちらが古いのか論争になっているが,オロモウツの方もその後何度も改築されて現在の装飾になったのは第二次世界大戦後まもなくのことだった。 社会主義のスタイルがそのまま残っている。
労働者と労働を讃える socialism reality (理想の社会主義)というスタイルである。自由体制に移行後改築の話が出たが、そのまま残す決定が下されて現在に至っているそうだが,この様なスタイルの天文時計があるのはオロモウツだけと思われる。仕掛け時計を見るために正午には観光客が集まるところなので観光のハイライトでもある。
また、この天文時計のオリジナルの部品やレプリカの説明はオロモウツ歴史博物館の天文時計の部屋に展示されている。天文時計ぜんたいの変遷はやはりそこに展示されているが,時代背景が繁栄されたデザインはじつに興味深い。例えば,女帝マリア・テレジアの時代に造り直されたときにはテレジアの堂々とした姿が時計の上に描かれている。このときの天文時計がもっともカッコいいとわたしは思っている。


ところで,「社会主義の世界」というプロパガンダ絵画等のスタイルは大体決まっていて、その地方の文化を表わす衣装をまとった男女が踊る姿とか描かれ、背景に労働の尊さを示す労働者の働いている様とか工場が描かれ、一生懸命働いて理想社会を建設しましょうと文言が書いてある場合もある。オロモウツの伝統文化は一言でいえば平坦で肥沃なハナー地域で育まれた衣装と踊りなので,豪華絢爛たる衣装をまとったハナーの男女が踊りながら行進している大きな絵がモザイク模様で描かれている。このモザイク模様もみものである。


オロモウツ市はかって分厚い壁でぐるりと囲まれていたが近くには大きな軍事基地があった。オーストリア帝国に支配された時代には帝国の基地として使用され,ナチ・ドイツに占領された第二次大戦時にはドイツ軍が駐留した。その後の社会主義時代にはソ連兵が使用していた。ロシア共産党の厳しい力をもろに受けたオロモウツであったことは,この現在の天文時計の部品一点一点に滲み出ている。その暗くて投げやりな時代には市庁舎前の広場は「スターリン広場」と呼ばれていた。町のいたるところにレーニンスターリンの大きな銅像がたっていた。
*聖三位一体コラム
2. 聖三位一体コラム(聖三位一体碑)
オロモウツの石工ヴァーツラフ・レンダーが中心となり、1716年―1754年にかけて建築した高さ30メートルを越す巨大なコラムは柱頭に金色の聖三位一体像をいただいている。31体の石像と20以上のレリーフの装飾で飾られたバロック建築は当時のハプスブルク帝国の女帝マリア・テレジアの参列のもとにオロモウツ司教により奉納された。もちろんオーストリア皇帝も参列されていた。


聖三位一体像を柱頭に戴くこの豪華なコラムは2000年に世界文化遺産に登録されオロモウツの観光スポットとして一躍有名になった。
http://4travel.jp/traveler/fk/album/10029771/
聖三位一体像は、父なる神と十字架をかざす子なるキリスト、それに丸い形で表す聖霊及び聖なる精神と平和のシンボルである鳩が光を放っていて,それが一体の像となっている。キリストも聖霊も、「父なる神」と全く同じ「神性」を持つとされ,「三位一体 」は、ローマ・カトリック教会の中心的教義とされる。 これは東方諸教会も採用しており、特にローマ教会独自の教義ではないがローマ・カトリック教会はでは根本思想としている。
それにしても何やら分かりにくいが,三位一体については私のまわりの友達にしつこく質問しても,結論的になると,はっきりとは理解できない神妙なる教えだということになる。
エスが生き返ったというのを「復活」と呼び,イエスは生前にはいろいろな奇蹟をおこして人々に愛を授けたから救世主として信じなければならないという物語が聖書にまとめられたと思うわけであるが,「三位一体」論はキリスト教神学の大切な学問であった,と私は考えている。ただし,宗教には門外漢の私には,あまり深くは考えにくい。宗教は不思議に映るわたしなので,キリスト教では,私は決して救われない生物ということになるだろうと恐れている。


チェコでは宗教のことをあれこれと話し合っても大きなしこりは残らないので安心であるものの,あまりにむごい宗教で信じることができないという論法は,聞く人にとっても気分のいいものではあるまい。もともと不信心者どうしの議論は意味がない。


目の前に聳える「聖三位一体コラム」は第一義には黒死病がおさまった神への感謝の記念碑であり、宗教戦争ローマ・カトリックが勝利したのを記念する宗教建造物でもある。皮肉なことではあるが,この文化財の建立後も,戦争は繰り返して発生したから歴史の惨さを見てきた記念碑である。碑のうえにたたずむ石像の聖人たちと司教たちも戦争の惨たらしさを目の前になんども見つめてきたことであろう。


この聖三位一体柱の中にはチャペルがある。この記念碑の発起人であり多額の金銭貢献をした石工ヴァーツラフ・レンダーはまだコラムが完成する前に亡くなったがその1733年にチャペルは完成された。その礼拝堂内部には宗教リリーフがはめ込まれていて,尼僧が親切に説明しておられ,柱に立っている聖人のお話もチェコ語でしている。


この私にとり不思議な世界文化遺産をもっとも美しく眺めるため私は近くの「カフェ・オペラ」という喫茶店の窓際の席に座る。写真撮影のためにはここでオロモウツ価格の珈琲を一杯のむのがお勧めである。オロモウツ価格というのは,都会の割にとても安いという意味で使われる言い方。それほど観光化していないこの都市は一般的に物価は低く旅行者にとって腹一杯食べても,請求書の料金を心配することはない。ついでのことだが,この「カフェ・オペラ」の建物はとても古くて,昔は高貴な方々の宿泊するホテルでもあった。大きなメニューにはこの建物の光栄の歴史が説明されている。


見飽きることのない聖三位一体コラムであるがその全体像は旧市街の広場からだと見上げるばかりで、眺めていても細かい細工等すべて観察するのは困難なので、詳しく見たいと思えばそのミニチュアがオロモウツ歴史博物館一階の奥に二基展示されているので是非とも博物館に足を運ぶのがいい。歩いて5分の距離にあるオロモウツ歴史博物館はその他にも興味深い展示がたくさんある。その博物館は古代から現代までのオロモウツ地方の歴史を知るためには避けて通ることはできない。


もう一度世界文化遺産に登録されている「聖三位一体碑」を考えてみるのだが,世界には規模の大きなビックリするような遺産がたくさんある。キリスト教をほとんど何も知らない日本人の多くは,比較的に非常に小型のこの碑が世界文化遺産だと聞いてむしろ驚く。
世界文化遺産とするには,広場を囲む建物群と広場の中心にある市庁舎も含めて登録した方がよかったのではないかと私も思うことがある。中世の「景観」として登録した方が訴えやすいのではないかと。広場を囲む一角にマクドナルドが入居している今では,もう遅すぎるが。


*ミハル教会
3つのキューポラを備えるバロック様式の教会。遠くからオロモウツを展望するときキューポラはランドマークとなる。1703年完成。


*六つの噴水はバロック式:
ネプチューンの噴水
オロモウツ市の噴水群のなかで最も古いもの。1683年完成。
マリアン・コラム
ヴァーツラフ・レンダーの設計によるもので 1723年完成。
ペストの犠牲者を弔うための記念碑。
ジュピターの噴水
1735年完成。
マーキュリーの噴水
1727年完成の噴水。水瓶はヴァーツラフ・レンダーが手がけた。



*ロマネスク式宮殿
 この国定文化財ロマネスク式宮殿は1867年大司教お抱えの建築家頭領により偶然発見されたもので,聖職者がその価値を忘れ去り長きに渡り放置されていた部分である。入口正面の右に聳えるヴァーツラフ教会ばかりがロマネスク時代から改築改造を繰り返されてきて,この宮殿の方はいつか忘れ去られていたのだった。教会の方はロマンティックな建築美の名残はとっくの昔になくなっているが,この小粒の中世司祭の館がいまでは貴重なチェコ文化遺産として認識されているものである。


この宮殿の小さくて分かりにくい入口の上にはロマネスク式窓が修理して飾られている。
現在ロマネスク部分は壁の一部に当時のまま残る。ガイドが説明してくれる。回廊の壁にはフレスコ画8枚が描かれている。イエス降誕を祝う三博士(Magi)のフレスコ画も必見。


このチェコにおいても大変貴重な歴史的な窓は宮殿二階に上れば目の前にたくさん見ることができる。ロマネスク窓は実用的なものではなく、窓じたいが建物の美しさに花を添える様な機能をもっている。窓のまわりの美術的な彫りもの装飾が素晴らしいので、日本人はこのロマネスク窓を好む。
二階の部屋はじつに貴重なロマネスクの部屋である。ふつうは階下から見上げる天上だがこの部屋では床板のはってない部分があって,尖塔アーチ形天上を上からのぞくという珍しいことができる。

 
*聖ヴァーツラフ大教会
 100メートルを越す尖塔は遠くからもよくみえる。モラヴィア川のほとりに築いた頑丈な石垣のなかに建てられているが,川の畔の公園から眺めると美しい。広場の正面から眺めると高すぎて全景はカメラにはおさまらないが、2006年6月に開いたオロモウツ大司教博物館の庭からは、大教会の正面全体を見ることができる。


 12世紀初頭ボヘミア王子により建立された教会でその前にあったプシェミスル城ないに建てられた。これはロマネスク式であった。教会敷地内にその後宮殿が建てられて司教と司教に仕える僧侶たちが居住したが,それが前に書いた値打ちあるロマネスク宮殿である。
 教会では教会設立者ヴァーツラフ(1126-1130)とその息子を祭る霊廟と「十字架の道」を表す銅版画が興味深く、宮殿には歴史的に貴重なものがたくさん展示されている。


 興味の尽きない観光資源はまだまだあるが、今日は代表的な遺産でどんな観光資料にも説明されているものだけにしておく。

http://4travel.jp/traveler/fkcz/album/10022614/